VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.6

Posted : 2010.06.25
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次の横浜トリエンナーレは2011年。その開催に向けての動きの中で、横浜美術館トリエンナーレ担当の天野太郎学芸員が感じたこと、出会ったことなどを紹介していきます。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2010年6月25日発行号 に掲載したものです。

アートの行方について 写真をめぐって

写真は、横浜美術館にとっても重要なコレクションの柱の一つである。ところで、写真というものが、世に現れるのは、美術館だけではない。図書館、博物館。 否そうした文化施設どころか、各家庭には、家族のアルバム——昨今は、デジタル写真がハードディスクの中に保管されている——があるし、写メールとして交 換されている写真もある。さらに、インターネット上で、あるいは町中にも写真は氾濫している。およそ美術館に収蔵されている他のジャンル、絵画、彫刻等と 比べようもない、写真のプレゼンス(存在感)の量と多様性が在る。

また、写真が芸術作品として美術館のコレクションになりはじめたのは、古い話ではない——そもそも写真が発明されたのが19世紀半ば頃であれば宜なるかな——。写真の美術館コレクションの先駆的存在であるニューヨーク近代美術館では、1930年に収集を開始し、1940年に、専門部署として写真部門が創設されている。写真の起源をいつにするかは、議論の分かれる所だが、一般的には、1826年にフランスのニエプスによる写真が、その始まりとする説もあれば、あるいは、1839年、フランスのダゲールという人がダゲレオタイプを発表したのを受けてそのはじまりとする説もある。いずれにせよ、そのはじまりから、およそ100年を経て、ようやく写真は、芸術作品として美術館に迎え入れられるようになった。爾来、美術館に収蔵された写真は、芸術作品として認識され、それ以外は、とるに足らない(あくまで芸術の基準に照らして)ものとして区別されている。
さて、つい先頃、三島にあるIZU PHOTO MUSEUMで、「時の宙づり—生と死のあわいで」と題された写真の展覧会が始まった。

「時の宙づりー生と死のあわいで」展 展示風景  図版提供:IZU PHOTO MUSEUM

「時の宙づりー生と死のあわいで」展 展示風景
図版提供:IZU PHOTO MUSEUM

この展覧会は、写真史を専門とするニューヨーク市立大学教授のジェフリー・バッチェンが、ゲスト・キュレーターとして企画したものだ。展覧会の規模こそ小さいが、ここで示されている写真のあり方は、実は、かなりラディカルなものとなっている。詳細な内容の記述は、ここでは避けるが、誤解を恐れずに言うと、本展は、芸術と目された写真と、無名のスナップ・ショット(日常の出来事、あるいは出会った光景を一瞬の下に撮影する写真)の間にあるとされていた価値基準を無効にしようとする試みだ。 

これは、何を意味しているのか?先に、ニューヨーク近代美術館が、今世紀初頭から写真を芸術作品としてそのコレクションの一つとして位置づけたと書いたが、実のところ、すんなりと写真の芸術としての地位向上(?)が広く受け入れられた訳ではない。その証拠に、同館では、1981年になって、写真部門のチーフ・キュレーターであるピーター・ガラシが、「写真以前(原題はBefore Photography Painting and the Invention of Photography)」展という写真の言わば地位向上、あるいは正統なる芸術の一分野であることを証明するための展覧会を企画することになる。ガラシの本展企画趣旨を述べた次の一節を読んで欲しい。

「ここでの目的は、写真というものが、科学が芸術の戸口に置き去りにした私生児ではなく、西欧絵画の伝統の嫡子であったことを示すことにある。」

写真が19世紀に発明されて、すでに150年以上経っても、実は、まだ写真の美術館における、あるいは、芸術の中における地位は定まっていなかったことを端的に示している。とは言え、ニューヨーク近代美術館どころか、世界中の美術館が写真のコレクションを開始し、それなりの量と質(?)の写真が収蔵されるに至っている現在、今更、写真は厳密には芸術ではありません、など、言えたものではない。とは言え、この間、写真を巡る芸術論論争は何か結論を得た訳でもない。

こうした中で企画されたのがジェフリー・バッチェンの「時の宙づり—生と死のあわいで」展というわけだ。この展覧会の本質を示す象徴的な展示がある。リー・フリードランダーと森山大道という「芸術写真家」の作品に挟まれて、匿名のスナップ・ショットが、線上に、そしてややコンセプチュアル風に、そしてここが重要な点だが、お互いに等質に展示されているのだ。有名無名を解消し、「平等」な立場で、これらの写真が併置されている。この展覧会には、横浜市所蔵の「ネイラーコレクション」(横浜市民ギャラリーあざみ野所管)からも数点出品されている。このネイラーコレクションは、本来であれば横浜美術館の写真のコレクションの一翼を担っても良いはずだが、そうはなっていない。写真が、美術館のコレクションとして迎え入れられるためには、美術的価値基準という定規で計られなければならないが、一愛好家であったネイラー氏が収集した数々の写真にまつわるこのコレクション——プリントをはじめ、数々のカメラ、はたまたカメラを構える人形まで——は、残念ながらアマチュアの眼を通したものにすぎず、美の殿堂である美術館のお目に適うものではない、というわけだ。

バッチェンは、そのネイラーコレクションからも出品作品を選定し、果たして、写真は、そうしたある一定の基準によって取捨選択されるべき表現分野だろうか? と、我々に問いかける。多くの家庭にあるファミリー・アルバムの写真には、例えば両親が、真心を込めて撮影した子どもたちの素晴らしきスナップ・ショットが無数にある。それらのスナップ・ショットと、美術館に収蔵されている写真史上重要な写真家のスナップ・ショットの間に、どういった差があるのか?かりに差があるとしてもその基準は、テキスト化され得るだろうか。バッチェンならずとも湧く疑問だろう。

ところで、「時の宙づり—生と死のあわいで」展で示されたプロ・アマを問わない展示方法は、当日シンポジウムに出席した発展途上の若き写真家たちに複雑な思いを馳せさせる。彼ら、彼女らが目指す写真は、まさに名もないスナップ・ショットように、ある意味で絶妙とも言えるシャッター・チャンスによって撮られた、しかも、無欲(美術館のコレクションに迎えられたいとか、高く売買されたいとか、といった一切の欲望がない)なイメージでもあるのだ。ところが、現実には、ただ同然の市場価値しかないそれらの写真を挟むように展示されている著名な写真は、何十万、何百万という値によって市場で売買されている。匿名の市場価値なしの写真になってしまっては困るが、それらに見られる「良き」写真は、目指さなければならない。このジレンマを否応なく本展は、掻き立てるのだ。

写真は、果たして芸術か、という、判決は、まだ結審していない。そしてもう一つの厄介な問題、その写真が目指すべき芸術は、今もなお、何百年の美術の歴史上に立つべき姿を有しているのだろうか?

『時の宙づりー生と死のあわいで』
会期:2010年4月3日(土)~8月10日(火)
会場:IZU PHOTO MUSEUM
詳細:http://www.izuphoto-museum.jp/

 

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜美術館主席学芸員。横浜トリエンナーレ組織委員会事務局
キュレトリアル・チーム・ヘッド。

 

 

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2010年6月25日発行号に掲載したものです。