横浜コンテンポラリー・ダンス史 【前編】

Posted : 2012.06.25
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毎年夏から秋にかけ、美術・ダンス・音楽の祭典を1年ごとに開催する「ヨコハマ・アート・フェスティバル」。 今年は、ダンスの祭典「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2012」がいよいよ7月からスタートします。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)など多数の著書で知られる乗越たかおさんに、横浜におけるコンテンポラリー・ダンスの歴史を紐解いていただきました。前編と後編に分けてお送りします。 乗越たかお(作家・ヤサぐれ舞踊評論家)

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年6月25日発行号に掲載したものです。

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前史

「日本のコンテンポラリー・ダンスを、横浜という土地を切り口に語ってほしい」という、なかなか魅力的な依頼を受けた。なるほど横浜はそういう視点から語られるべき街である。概観してみても、日本のコンテンポラリー・ダンスの扉を大きく開けた伝説のイベント『ヨコハマ・アート・ウェーブ』(1989年)を皮切りに、日本におけるコンテンポラリー・ダンス黎明期を象徴するような公演の多くが横浜で行われた。また「横浜ダンスコレクション」は現在「首都圏で毎年開催される国際ダンス・フェスティバル」としては、ほとんど唯一の存在となっている。大小の劇場やスペースが続々とできており、しかもそのほとんどが歩いて行けるエリアに集中している。街並みが美しいので、移動も苦にならない。さらにはTPAMや大野一雄フェスティバルなど、いまやダンスの重要拠点となっているといっても過言ではないのである。

ご存じの通り、江戸時代の横浜は、都である江戸から遠く離れた寒村だった。幕府が開国を迫りにくる外国人の居留地をここに造ったのは、なにかヤバいことが起きても、将軍のお膝元である江戸までは火の粉が及ばないようにするためだった。しかし横浜は外国文化を続々と採り入れ、見事に独自の文化を発展させてきた。

これと似たことは世界中にある。たとえばニューヨークだ。昔、アメリカの首都がフィラデルフィアにあった頃、ちょいと離れたニューヨークのマンハッタン島は移民の受け入れ口で、冬は零下十度にまで下がる「寒村」だったのである。だが結果としてニューヨークはフィラデルフィアをしのぎ、世界一の劇場街をもつ文化の中心へと成長していったのだ。

政府が外国人を追いやった寒村が、やがて複合的な文化を擁するバイタリティをもって発展し、首都をも凌ぐようになる。そして国際的な変化にもいち早く対応し、パイオニアとしての役割を果たす…… コンテンポラリー・ダンスにおいて、横浜の果たした役割はまさにこれだったのである。

奇跡の「ヨコハマ・アート・ウェーブ」

日本の場合「コンテンポラリー・ダンス」という言葉が人口に膾炙しはじめたのは1980年代後半だが、それ以前から「新しいダンスの波」は、ひたひたと打ち寄せてはいた。まずはモーリス・ベジャール、ローラン・プティ、イリ・キリアンといった「モダン・バレエ」の系譜。もうひとつは、日本でも強い影響を与えたアメリカのモダンダンスの系譜である。これらは88年に始まった東京国際演劇祭(現「フェスティバル/トーキョー」)や、『三井フェスティバル』など、東京でも精力的に紹介されてはいた。

しかしコンテンポラリー・ダンスの爆心地ヨーロッパから最先端のダンスカンパニーを一度に招聘してみせ、ダンス界、とりわけ若いダンサー達に衝撃を与えたのが『ヨコハマ・アート・ウェーブ』である。これは、横浜市政100周年・開港130周年の記念事業だった。おりしも株価が最高値を付け、バブルもピークの年である。予算もドーンとついたであろうことは、想像に難くない。

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面白いのは、タイトルのどこにも「ダンス」という言葉が入っていないことだ。ポスターには当時「サイバーパンク・アート」で売り出し中だった三上晴子のアート作品『キーボードマン・バイ・コンピューター・ネットワーク1989』を起用しているが、関連企画に美術展などはなく、唯一の展示が「『土方巽とその周辺』展」のみ。まぎれもなくダンス・フェスティバルだったのだ。

そしてアーティスティック・ディレクターである佐藤まいみ氏の慧眼により、最先端にして今思うと豪華すぎるメンツが揃った。

■ピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踊団(ドイツ)『カーネーション』神奈川県民ホール
■アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル&ローザス(ベルギー)『ミクロコスモス』他 関内ホール
■ダニエル・ラリュー&アストラカン(フランス)『風の薔薇』関内ホール
■ラ・フーラ・デルス・バウス(スペイン)『Suz/O/Suz』宇徳運輸新山下倉庫

(日本勢は白虎社『ひばりと寝ジャカ』、江原朋子『MOONLIGHT』、米井澄江『Dialogue』、横浜ボートシアター『小栗判官・照手姫』

ピナ・バウシュは、衝撃の初来日以来3年ぶりの公演で、舞台一面に土を敷き詰め、舞台上を埋め尽くすほどのカーネーションが植えられていた。そこで大人たちの切ない狂騒が展開される。ローザスはスカートがふわりと広がる独特なコケティッシュさを鮮烈なミニマル・ダンスに溶け込ませていた。ラリューは二部構成で、第2部『建築狂達』は有元利夫の絵からインスピレーションを得た作品。ラ・フーラはスペインのイカレポンチで、観客を大きな倉庫に閉じ込め、ガンガンにロックが流れる中、観客に水や粉や生肉を投げつけ、チェーンソー(の歯を外した駆動部分)をギャンギャン言わせながら追いかけ回した。しかしその後はオペラの演出をしたり、1992年にはバルセロナ・オリンピックの開会式を手がけるなど、設立25周年を経ていまや大御所である。そしてピナ以外はいずれも初来日だった。

これら表現の幅の広さと自由度の高さが、「そんなことまでしていいのか!」と日本の若い連中の血を燃え上がらせたのである。勅使川原三郎以降、日本のコンテンポラリー・ダンスを引っ張った世代に、『ヨコハマ・アート・ウェーブ』に触発されたと語る人は多い。「こりゃあスゴいことになるぞ、ヨコハマ!」と第2回を待望されたものの、残念ながら1回で終わってしまった。

神奈川芸術フェスティバル

……と思っていたら5年後に、やはり佐藤まいみ氏のプログラムのもと「神奈川芸術フェスティバル」(現在は「神奈川国際芸術フェスティバル」)というイイ感じのフェスティバルが始まった。「アート・ウェーブは横浜市。こちらは神奈川県だから」とか事情はあるようだが、観客にしてみれば、良い舞台を見せてくれれば、それでいいのである。

現在は音楽・オペラ・バレエが多いが、第1回はコンテンポラリー・ダンスが中心だった。フランクフルト・バレエ団『アーティファクト』、フィリップ・ドュクフレ『プティット・ピエス・モンテ』、ヤン・ファーブル『時間のもうひとつの側』など、これまた珠玉のラインナップである。ドイツ・フランス・ベルギーというチョイスも同じラインだ。『アーティファクト』は世界中のバレエ団で上演される代表作であり、ドュクフレとファーブルもこれ以降、来日を重ねる人気を得た。とくに『時間の~』は、最後に3,000枚の陶器の皿が大音響と共に降り注ぐ、忘れられぬ作品である。さらに日本勢も勅使川原三郎『BONES IN PAGES』、ダム・タイプ『S/N』という、海外で高い評価を得ている日本人アーティストが並んだ。特に『S/N』は中心メンバーだった古橋悌二がHIV陽性である自分自身を作品として提示するもので、ダム・タイプの中でも、いや舞台史の中でも特筆すべき作品である。これが日本初演であり、翌年、古橋は世界ツアー中に絶命した。

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日本がアジアにおけるコンテンポラリー・ダンスのパイオニアになれた要因のひとつに、バブル景気で金の余った企業が「冠公演」という形で黄金期のヨーロッパのダンスを大量に招聘することができたことが挙げられる。90年代に入ってもしばらく海外からのダンスの招聘は続いた。特にこのころは全般に大きな規模の作品が多く、神奈川県民ホールなどでもよく上演されていた。

ランドマークホール、バニョレ国際振付コンクール、横浜ダンスコレクション

89年の末に横浜美術館が開館し、桜木町の駅前も再開発が進んで、大規模再開発プロジェクトの「みなとみらい21」が、続々と形になっていった。93年にランドマークタワーが開業したときも、まだ周辺は更地のままガランとしている一方、目の前には巨大な帆船が係留されているという、作りかけのディズニーランドみたいな感じだった。タワー内にあるランドマークホールではダンス公演がけっこうあり、よく通ったものである。

自主公演も多かったが、特筆すべきは「横浜ダンスコレクション」と「バニョレ国際振付コンクール・ジャパン・プラットフォーム(96年~2002年までの偶数年。計4回)」が行われたことである。

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バニョレ国際振付コンクールの第一回は青山円形劇場で行われ(91年)、草月ホール(94年)と続き、横浜ダンスコレクション立ち上げの目玉としてランドマークホールへと移った。そこで伊藤キム(96年)、ユーリ・ン(98年)、白井剛(2000年)、梅田宏明(02年)と、のちのダンスシーンを引っ張っていくスターが誕生していった。2002年に横浜赤レンガ倉庫1号館が開場して、04年からはそちらに移るが、そこからは2回連続「該当者なし」のまま、幕を閉じた。これは、はた目で見ていても、「審査員であるフランス人に気に入ってもらえるダンスではなく、自分が本当にやりたい、日本のダンスを作るべきだろう」という空気があったと思う。それは、見よう見まねで始まった日本のコンテンポラリー・ダンスが20年を経て、それなりに成熟しつつあったことを示している。

「横浜ダンスコレクション」ついては次回に詳述するが、そんな転換期を支えるうえで、重要な役割を果たしてきた。さらには新しい劇場やスペースができていき、横浜は「劇場の街」としての密度を増していくのである。

(続)

【編集部より】
後編は、横浜が新進振付家の活動の場となっていく過程を次のプログラムを中心にお送りします。次号vol.19 をご期待ください。

・大野一雄舞踏研究所、テアトルフォンテ、BankART1929、大野一雄フェスティバル
・STスポット、Nibroll、チェルフィッチュ、山下残
・急な坂スタジオ、のげシャーレ
・横浜赤レンガ倉庫1号館、横浜ダンスコレクション
・KAAT(神奈川芸術劇場)
PROFILE

乗越たかお(のりこし たかお)
作家・ヤサぐれ舞踊評論家。
06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。ソウル国際振付フェスティバル審査員。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!?』(エヌティティ出版)、最新刊はダンス100年の歴史がわかる『ダンス・バイブル』(河出書房新社)他著書多数。

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年6月25日発行号に掲載したものです。