VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.13

Posted : 2011.08.25
  • mail
「横浜トリエンナーレ2011」キュレトリアル・チーム・ヘッドをつとめる、横浜美術館の天野学芸員が綴る、アートをめぐっての考察。「アートとは?」と問い続ける連載です。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2011年8月25日発行号に掲載したものです。

第13回:説明を要する現代美術―「キャプション」論、再び―

これは美術作品ですか?——横浜税関にて

7月に入ると、ヨコハマトリエンナーレ2011の出品作品の国内外の輸送が本格的に始まった。震災前にすでにアレンジをしたヨーロッパからの船便も、ようやく横浜港に到着しつつある。そして7月15日、横浜税関本牧埠頭出張所から到着作品について説明を求められることになった。
ところで、こうした国際展で海外から作品を輸送する場合、展示後は、そのままレンダー(所蔵先)に返却することから、関税定率法第17条の再輸出免税の適用が可能になる。ここでは、「輸入されその輸入の許可の日から一年以内に輸出されるもの」の中の一つに、「博覧会、展覧会、共進会、品評会その他これらに類するものに出品するための物品」があり、まさにトリエンナーレに出品される作品は、この項目に該当するというわけだ。
一方、税関としては、美術品と言えば、絵画、彫刻といった一般的に誰が見ても了解出来るジャンルを想定しており、トリエンナーレの出品作品の大半が、そうした区分を容易にしない厄介な現代美術であることは言わば想定外ということになる。つまり、一見したところ、美術作品であることを了解することが困難なモノというわけだ。今回、説明を求められたのは、マッシモ・バルトリーニ / Massimo BARTOLINIの《オルガン》と、トリエンナーレ2011のタイトルにもなっているウーゴ・ロンディノーネ / Ugo RONDINONEの《Our Magic Hour》。理由は、「オルガン」の名の下に輸送されたのは、音源の装置と、建築資材でもある単管で、これは見ようによっては、建設用の足場の材料にしか見えない。これをどう区分すべきか。

税関に届いた作品はこんな姿。すんなりと「美術作品」であるとは了解し難い....

税関に届いた作品はこんな姿。すんなりと「美術作品」であるとは了解し難い….

 

税関に届いた作品はこんな姿。すんなりと「美術作品」であるとは了解し難い….

ちなみに、再輸出免税の対象科目は、以下の通り。
•  加工される貨物又は加工材料となる貨物で政令で定めるもの
•  輸入貨物の容器で政令で定めるもの
•  輸出貨物の容器として使用される貨物で政令で定めるもの
•  修繕される貨物
•  学術研究用品
•  試験品
•  注文の取集め若しくは製作のための見本
•  国際的な運動競技会、国際会議その他これらに類するものにおいて使用される物品
•  本邦に入国する巡回興行者の興行用物品など
•  博覧会、展覧会、共進会、品評会その他これらに類するものに出品するための物品
• 本邦に住所を移転するため以外の目的で入国する者がその個人的な使用に供するためその入国の際に携帯して輸入し又は政令で定めるところにより別送して輸入する自動車、船舶、航空機、その他政令で指定する物品
•  その他

ざっと見渡すと、今回は「その他」ということになるのだろうか。税関から提案があったのは、「オルガン」は楽器、ネオンの作品はイルミネーションでどうだろうか、ということだった。実際には、区分を専門とする部署が、最終的には判断するらしい。
税関は、美術作品ではなければ、輸入させない、あるいは再輸出免税を適用しない、と言っているわけではない。区分において悩んでいるわけだ。あっさりと、美術作品であることを認められないの理由の一つは、それを認知するための社会的コンセンサスがないことを意味している。いくら、学芸員が、美術品です、と言い張っても、それはここでは通用しない。こうしたやりとりをしているときに、アンディ・ウォホルの作品にまつわる話を思い出した。
既製品を作品化したアンディ・ウォホルだが、カナダでの展覧会のためにこれらの「作品」を輸入しようとして、結局、美術作品ではなく商品としとして認定され、輸入税を支払わされた、という逸話だ。

アンディ・ウォホル《ブリロ・ボックス(洗剤)》1964年

アンディ・ウォホル《ブリロ・ボックス(洗剤)》1964年

展覧会として出品し、終了後、アメリカにそのまま輸出すれば通関料は免除された筈だが、恐らくカナダで販売しようとしたので、関税料を支払う羽目になったと思われる。こうした言わば認識の違いを、美術関係者側は、前衛的な作品が、なぜ美術作品と認められないのか、と、役所の杓子定規な対応を嘆くのだが、そんなことよりも未だ世間から見れば、現代美術の作品が、美術として認知されていない現実にその関心を向けるべきだと思うのだが。

「作品」と「キャプション」あるいは「実体」と「命名」

さて、閑話休題
前回に続き、キャプションについてもう少しふれておきたい。
作品とキャプションの不即不離の関係は、それ自体がモダニズムの歴史であることは指摘したのだが、一方で、近代美学は、「感性的認識の学」と定義付けられている。この立場に立てば、「言葉で言い表せない」美を意味するこの感性的認識と、キャプションに表象されるテクスト認識は、明らかに対立する概念でとして浮上する。この問題をどう考えれば良いのか。かつて、或る国内の美術館で、こうした点をテーマとした展覧会が開催され、以下のようなあいさつが示された。
「作品鑑賞の場である展覧会では、作品とともに、タイトルや作者の情報を記載したキャプション(作品解説板)が提示されます。もしキャプションがなかったら、私たちはきっと不安を感じてきたことでしょう。それはいったいどうしてなのでしょう。世界は「実体」とその名づけられた「名前」によって成り立っています。それは私たちの自我と、名前との関係にも重なります。本展は古今東西約400点の作品のキャプション展示を通して「作品」と「キャプション」の関係、そして「実体」と「命名の歴史」について、考えようとするものです。」
この展覧会では、実際に展示をされた作品には空白のキャプションが添えられ、床には、「古今東西約400点の作品のキャプション」が散りばめられた。
問題の所在は、どこに在るのか?
上記の「あいさつ」のように、今では、作品とキャプションの関係、慣習化がさらに進化した制度(システム)となった。一方、近代以前においては、例えば絵画はその主題とした神話、歴史、宗教において、それらの教養を十分に備えた受容者だけが、キャプションを必要としないで鑑賞出来た。ところが、19世紀以降の近代にあっては、美術のあり方が根本的にシフトしたのと同時に、受容者そのものの意味もまたシフトしたのだ。すなわち、近代以降においては、教養を強化するため、キャプションは不可欠のものとなった。キャプションを必要としない「教養」ある人々が受容者であった時代から、「教養」を身につけるために美術を「学ぶ」ためのキャプションを必要とする受容者の出現が、こうした事態を生んだのだ。無論、近代の美術が、「美」の芸術から「概念」の芸術へシフトしてきたこともまた、作品が、キャプション=テキストを強く要請してきた理由の一つに挙げられるだろう。

「キャプション」どころか説明が必須の現代美術作品

さて、上記のあいさつ文は、「作品」と「キャプション」を「実体」と「命名の歴史」に呼応させたのだが、その意図の中には、実体=存在論を抜きにしては語れない背景がある。実体=存在論、人間の実体=存在論と同様、我々の存在の自律性とは何によって保証されるのか。親があって自分たちが存在する。原因と結果の関係。ところが、一方で、近代の美学は、作品がそれ自身によって自律されなければならないことを声高に唱えてきた経緯がある。近代の芸術が、徹底して個性や独創性(オリジナリティ)を追究し、何よりも他との差異を強調することでまさにその存在理由を示してきたことと大いに関連する。今でも、美術館の学芸員が、その研究領域に直結するかたちで、絵画、彫刻、版画といったジャンルによって分掌化されているのもその証左だろう。
ところで、震災後、被災者が、家族のアルバムを丹念に瓦礫の中から探し出している様子が報道されていた。すべてでなくとも、その断片が発見されたときの人々の様子は、感極まり、それが「将来の新たな家族の宝となる」、と、振り絞るような声でつぶやいていた。恐らく、同じように発見されたデジタル写真を保存していたパソコンやカメラからは、残されたイメージの回収は望むべくもないだろう。
こうした家族のアルバムに「キャプション」の必要はない。無論、それぞれのイメージに、家族でしか了解出来ないちょっとしたテキスト(多くの場合、撮影場所やちょっとした感想)が添えられる事はあっても、作家=撮影者、作品名を記すことなどないと言って良いだろう。なぜなら、どのイメージも、家族が共有可能な記憶が収められているからだ。かつて、つまり写真が登場する19世紀以前、絵画が、それを生んだ集団の共有すべき記憶となっていた。そこには、共有すべき歴史、神話、宗教の表象が散りばめられていたからだ。キャプションは必要ではなかった、という意味では、少々乱暴ながら、両者に類似性がなくもない。
ところが、横浜トリエンナーレに代表されるような現代美術では、キャプションばかりか、作品を巡るテキストはある意味で必須だ。例えば、主会場の一つ横浜美術館で、最初に遭遇する中国のアーティスト、尹秀珍(イン・シウジェン)の作品。まるで映画のフィルム入れのような金属の容器に、布らしきものが詰められた《one sentence》という作品。

尹秀珍(イン・シウジェン)《ワン・センテンス》 2011  写真: 木奥恵三

尹秀珍(イン・シウジェン)《ワン・センテンス》 2011  写真: 木奥恵三

会場で、与えられる情報は、このキャプションと、何よりも作品自体。これでは、何のことやら、謎めいたままだ。
次回は、尹秀珍(イン・シウジェン)の作品を巡るテキストを紹介しつつ、なぜ、作品に説明が必要なのか、言い換えれば、説明なしに作品が理解出来ないのはなぜか、を考えてみたい。

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜美術館主席学芸員。横浜トリエンナーレ組織委員会事務局
キュレトリアル・チーム・ヘッド。

 

 

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2011年8月25日発行号に掲載したものです。