藤井雷さん(日本画家)

Posted : 2010.02.25
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今回は、アーツコミッション・ヨコハマが進める横浜とアジア各都市とのアーティスト・イン・レジデンス交流の一環で、韓国・仁川アートプラットフォームでの3ヶ月の滞在制作を経て、横浜で個展「Round Scape (-Yokohama-Incheon-Sokcho-)」を開催した美術家・藤井雷さんにお話をお伺いしました。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2010年2月25日発行号 に掲載したものです。

3歳で五重塔を描く!

Q. 藤井さんは2006年に横浜美術館で開催された「日本×画展」で、美術館デビューされたと伺っています。2003年に武蔵野美術大学の日本画科を中退後、2006年には美術館でデビュー。とても早い印象を受けますが、絵を描き始めたのは、何歳頃だったのですか?

2歳です。だから自分では全然覚えていないんですが、当時のスケッチを見ても、五重塔とかを描いています。墨絵とか仏画とか。小さいときからお寺が大好きで、お寺に行くと、襖とか仏像とかを見て、そういうものに興味がありました。

Q. 2歳で?

そうなんです。2歳とか3歳で。五重塔とロボットとか(笑)。興味のある対象にそういうものが入っていたみたいです。そう考えると、墨とか日本画とかにすごく近い感覚をもともと持っていたのかもしれません。

Q. ご両親の影響とか?

いえ、特にないです。

Q. それでいきなり3歳で五重塔を描くなんて、珍しいですね!

両親は本が好きで、よく図書館に連れて行かれたのですが、何故か分からないけど、僕はいつも日本の古寺シリーズのコーナーにひとりでに向かっていて。絵本とかじゃないんです。でも、僕にとってみれば絵本なんです。で、見ているうちに模写を始めて。かっこいいなーって。

Q. 墨とか、日本画の顔料って子どもにはあまり馴染みのない素材に感じます。普通はクレヨンを手に取ったりするところをどうして藤井さんは墨だったのですか?

もちろん、子どものころはクレヨンとか鉛筆で描いていました。
墨を手にしたのは、小学校の2、3年のときですね。絵の具も使っていましたが、お習字の授業があって墨を使って。それで、だんだん馴染んできて。

Q.3歳で五重塔を描き始めた藤井さんはその後、どんなものを描いていたのですか?(笑)

その後は、やはり、その時々で興味のあるものです。仏画のようなものから全く離れたものも、もちろん描いていますし。いろいろです。
絵を描いているときは楽しくて、ハマっていました。かといって、ずーっと絵ばかり描いているような子どもではなくて、友達と外で遊ぶことも多かったです。探検とか好きでした。

Q.風景を描き始めたのはいつ頃からですか?

僕にとっては、どこからが風景画か、というのがよく分からなくて。五重塔も風景といえるし。僕の意識の中ではテーマによって写生とか風景画という区別をつけることができないんです。写生的なものという意味では、幼稚園のお絵かきの時間が初めてだったと思います。

Q. 藤井さんには、いくつかお好きな散歩コースがあるとお聞きしましたが、横浜の好きな場所を教えてください。

本牧の丘の上に、本牧山頂公園という場所があって、そこが好きですね。見晴らしがよくて、薄が茂って少し荒涼とした景色で、海も見えるところで、夕日が最高にきれいなんです。

Q. 藤井さんの絵は、すこし荒涼としたところがあって、雲や空に特徴がありますね。

そうですか?特に意識はしていませんでした。でも確かに、なにか広いところでのんびりしたいなーという気持ちの時に描きたくなることが多いからかもしれません。

Q. 藤井さんの作品を拝見すると、見逃してしまいそうな、さりげない風景が多い印象ですが、どんなときに描きたくなるのですか?

そうですね…。今回展示した作品でいえば、見晴らしがよくって気持ちがよくて、昼寝してしまいそうな場所で。そのときの場合でいえば、「ここに長くいたいな」と思って。
気に入った場所を描こうとしたとき、立ち止まるよりも描くほうがそこの場に長く居られると思うわけです。どこか風景を目にした瞬間、全部つなげてみたい、描いてみたいと思ってしまう。「絵手紙」のときにそうだったのですが、描きたい風景があると紙が足りなくなるんですよ(笑)。それで、(この作風を思いついた)最初の心境というのは、「じゃあ紙を足せばいい」と。「紙を接いで足りないところを補えばいいや」と。で、現在手掛けているような作風が生まれました。

Q. さりげない風景が切り取られていて、どこから始まって、どこから終わるのか分からない不思議な感覚を覚えました。

はじめからこの範囲の中で描こうというのではなくて、描きたいものがどんどん広がっていくんですね。そこと決めて描くときもありますが、どんどん広げていって展開していきたいときもあります。
心境変化ってありますよね。それに従って、ストーリーのようなというか、一ヶ所の一つの固定した風景の中で何日も、というよりは、日々移ろう心境の変化を風景に当てはめて表現したいという気持ちがあります。だから、紙は分かれていても風景としては繋がっているし、その中には全然違う場所の風景も入って、ひとつの作品になっています。

Q. 風景は、今、目の前にある景色を写し取っていくという表現もありますが、藤井さんの場合は、時間や空間を超えてひとつの風景を創り上げているのですね。

見る人の状態にもよると思いますが、一枚の絵というよりも、一冊の旅行記のような形で風景を描けたらなーと思っています。今回の作品も、始めは横浜から描き出して、横浜の景色と仁川の景色が交じり合った風景があって、そして仁川の様々な場所を描いて、それからソクチョにたどり着いて、そして横浜に戻るという流れです。

Q. この作風にたどり着いたのは?

奄美で自宅あてに「絵手紙」を出し始めたことが、多分一番初めですね。
絵手紙をやっていたとき、実は単純に紙が足りなかったんです。それで紙を継ぎ足しながら描く風景を広げていた。それと、構図をがっちり組むより、自由に描くほうが楽しい。心境の変化のようなストーリーとして捉えられそうなもの、日々移ろう、その変化を風景に当てはめていきたいと思っていて。自分自身のそのときの状態を写す旅行記のような形で風景を描きたい、そんな感覚があります。


美術館デビュー!横浜美術館「日本×画展」出展のきっかけ

Q. 奄美で、絵手紙を描き始めたきっかけをお話いただけますか?

大学2年生を終えて、21歳頃かな、奄美に行きました。最後は台湾に辿りつく10ヶ月ほどの旅なのですが、最初にゆっくり滞在したところが奄美でした。そこで泥染めの工房に入り、泥染めの仕事をしました。泥染めの技術を習いたかったのもあったし、帰るお金をつくらなきゃというのもありました。

朝7時から一日中、「染」という肉体労働をずーっとやっていました。最初は身体が慣れなくて、仕事が終わるとすぐ眠ってしまうような生活だったのですが、徐々に慣れてきて、少しゆとりができて。そうすると、絵を描きたいという欲求がでてきたんです。でも当時はコンテナを借りて寝泊りしていたので、描く場所がないんですよ。で、何ができるだろうと思ったときに、家にも全然連絡をしていなかったので、封筒サイズくらいの手紙のようなものなら描けるなーとおもって、それで絵手紙を始めました。毎日ではないですけど。

Q. 手紙がキャンパスだったんですね。

そう、正にキャンパスです。この絵手紙を、封筒を継ぎ足し継ぎ足し、描いていました。そうすれば大きな絵が描けると。でも描き終わったものからどんどん投函していたので、全容は自分でも分からない。それで、どうなってるんだろう?って、全体を見てみたくなった。

Q. それが「日本×画展」(2006年/横浜美術館)の作品につながったのですか。

そうです。当時すでに300枚か400枚くらい描いていて、たまりにたまっていたところで、自分で一度全部並べて、全体を見てみたくなったんです。でもどうやったらいいかその術が分からなくて。それで横浜美術館に相談に行ったんです。
当時、写真専門の学芸員の方がいらっしゃって。僕は「李禹煥(リ・ウファン)」を観に行ったんですが、その時、その方に質問したことがありました。それで、絵手紙のことを相談しようと思って横浜美術館に問い合せたところ、偶然にもその学芸員の方がいらして、僕のことを覚えていてくれたんです。

それで、「今なら時間がありますから、来れますか?」と言ってくださって、見ていただいたんです。そしたら、とても興味をもっていただいて、次の企画展だった「日本×画展(にほんガテン)」(2006年7月15日~9月20日横浜美術館)の担当学芸員の方をご紹介いただいたんです。出展作家をちょうどリサーチしているときで、それで、出展が決まりました。

Q. いきなり美術館はすごいですね!藤井さんは何故、学芸員に相談しようと思われたのですか?

ただ展示をするのにどうやればいいかを聞きたかっただけなので。 特にためらいはありませんでした。まさか出展する機会をいただけるとは想像だにしていなかった。だから普通に訪ねて行ったんですよ(笑)。

Q. 最初はどんな感じだったのですか?

「作品のことでお尋ねしたいことがありまして、お時間があったら少し見ていただけませんか?」ってお願いしました。

Q. そのとき学芸員の方は? はい、どうぞーって?

そうです。「今、時間あるから、じゃあ、いらしてください」って。

Q. 横浜美術館にはそれまでも行かれたことがあったのですか?

はい、昔からよく行っていました。展覧会を見るのと、図書館(美術情報センター)がとても充実している美術館なので、図書館をよく利用していました。

Q. とても身近な存在の美術館だったんですね。

身近ですね。横浜美術館に行ったのは小学生のときが初めてだったと思います。僕は横浜育ちなので、小学校の課外授業か何かで「子どものアトリエ」に行ったのが最初です。実質的に初めて日本画を描いたのも、この「子どものアトリエ」の日本画教室だったと思います。

Q. だからこそ気軽に美術館に行けたのかもしれませんね。

とはいっても、学芸員の方にお会いしたことはなかったんですよ。でも、断わられたらそれまでだし、聞いてみるだけ聞いてみようと。

Q. どんな話をなさったんですか?

作品を見て、すごく面白がってくれて。写真がご専門の方だったので、「藤井君、これなんのサイズだか分かる?」って。「いや、わかんないです。」と答えると、「これはパノラマ写真のサイズだよ」って教えてくださったんです。それで、「これは、パノラマのパノラマのパノラマのパノラマで、なんだかずっと続いている感じだね。」っていうところで面白いと興味を持ってくださったそうです。超パノラマ(笑)。

Q. ご自分でずっと描きたいものがあって、それをどう展示しようかと、たまたま相談をした学芸員の方が写真専門の方で、「パノラマ」っていうキーワードが出てきた、と。

そうです。その時、ちょうど企画展の準備中で、作家をもう一人探していたところだった。

Q. その「日本×画展」に先駆けて3人の作家で一緒にアーティスト・イン・レジデンス(※)をなさったそうですね。
(※アーティスト・イン・ミュージアム横浜(AIMY)2006「3人のアーティスト」)

出展するにあたって、横浜美術館の収蔵品に着想して新作を一枚つくるという企画になっていて。 僕は、今村紫紅の「熱国の巻」という作品を選びました。紫紅が旅行の体験を描いたもので、なんかすごく近い感覚だなーと。それで、これに呼応した作品を書きました。紫紅のこの作品はペナンの旅行をもとに制作されたものなんですね。 じゃあ僕もペナン(マレーシア)に行こうと。そして、実際にペナンに行きました。

僕はそれまで絵巻を描いたことがなかったんですが、とても僕の家ではスペースがなくて描けないだろうと思って相談したところ、じゃあレジデンス企画をやるからそこで描かないか、と言っていただきました。
余談ですが、実は紫紅も、横浜の関内あたりで育ったそうです。そして、目黒で亡くなられた。僕も横浜育ちで、やはり関内あたりで育っていて、目黒生まれ。なんか不思議な縁を感じましたね。

Q. この出展に至るまではどのように過ごしていらしたんですか?

「絵を描いていこう」という決意のようなものはなくて。仕事もしていました。でも、実際、絵はずっと描いていました。

Q. 美大中退後も絵を描くことが中心ではあったのですね。作品発表は?

特にはなかったです。

Q. 先ほどのAIMY2006「3人のアーティスト~新井卓、藤井雷、川島秀明」について、お聞かせいただけますか。

このときは1ヶ月間、美術館内で滞在制作をしました。とにかくおもしろかったです。他のアーティストさんと同じ場所で制作をして、話をしたり一緒に食事をしたり。学生に戻ったような感覚がありましたし、刺激になりました。このお二人とは今でも交流があるんですよ。

Q. 企画展への出展制作のために美術館にレジデンスというのは面白いですね。

そうですね。横浜美術館は、「アイドル!」展(川島秀明さん)や「金氏徹平:溶け出す都市、空白の森」展(金氏徹平さん)でも同じ形式で企画を進めていらっしゃるようです。
それから、僕は美術界とか展示について何も知らなかったので、美術館の方にもいろんなお話をしていただきました。あとは、企画展の準備とかで来館される作家さんを紹介していただいたり。 そういう方達とお話ができたのは刺激になりましたね。世界が広がるというか。


仁川での出会いと制作活動

Q. 今回、作品を制作した仁川アートプラットフォームにレジデンスすることになった経緯を教えてください

7月に、黄金町エリアマネジメントセンターのスタジオで展示をしていたときに、仁川プラットフォームのキューレーターの方が来日していて、横浜美術館に来ていたんですね。その方と横浜美術館の学芸員の方が面識があって、僕を引き合わせてくださいました。仁川アートプラットフォームにレジデンスする作家を探して横浜にいらしていたそうで。

それで、黄金町の作品と、今は横浜美術館に収蔵されている「日本×画展」の出展作品を見ていただいた。それからなんだかあっという間に、仁川行きが決まりました。派遣にあたっては、この仁川アートプラットフォームとアーツコミッション・ヨコハマ((公財)横浜市芸術文化振興財団)との間で交流事業が行われることになり、その助成をいただきました。

Q. どれくらい滞在なさったのですか?

9月24日から12月19日まで、約3ヶ月間滞在しました。実は、10月に個展を予定していたんですが、それを9月に繰り上げて、終わった翌日に出発。急展開でした。そして初めての韓国で、いきなり3ヶ月滞在しました(笑)

Q. 初めての都市に3ヶ月滞在って長いですよね。

そうですね、行くまでは長いなーと思っていたけど。2ヶ月経つ頃には慣れてきて。
食事がとてもよくて、野菜も日本より倍くらい食べていました。韓国料理がやみつきになりました(笑)。韓国に着いてまず思ったのは、まず街を歩こう!と。僕は太鼓をやるので、出発前から「ムーダン」に興味があって、この伝統的な韓国の儀式をぜひ見たいと思っていました。そしたらなんと、到着した翌日がちょうど年に一度の大きな儀式が行なわれる日で、いきなりムーダンの洗礼を受けました。2日間にわたって、7時間くらい太鼓をたたき続けるものなんですが、ものすごい迫力でした。

Q. 仁川アートプラットフォームはどんなところでしたか?

仁川アートプラットフォームは完成したばかりの施設で、僕はちょうどオープニングの前日に到着しました。横浜の赤レンガ倉庫と似た雰囲気があって、施設の半分くらいが古いレンガ倉庫などをリノベートした建物です。ゲストハウスが1棟、スタジオ2棟、エキシビションスペースが3棟ありました。ここに仁川の文化財団のオフィスも入っています。

各国のアーティストが一堂に滞在制作を行なうことを目指していて、当初5カ国くらいからアーティストを招聘する計画だったそうですが、今回はまだまだ韓国の方がほとんどで、外国人は僕くらいでした。
このプラットフォームは仁川の街の中にあって、隣には中華街があり、港も近い。横浜の風景と似ていて、何かつながるものをとても感じました。

Q. 制作の様子について聞かせてください。

最初に描き出したのは仁川プラットフォームの中です。横浜にいる間に、横浜赤レンガ倉庫の中で描き始めていたものがあったのですが、そこから仁川の赤レンガにつながるという形で。この二つの赤レンガ倉庫群、たしか竣工年も同時代だから歴史的にもつながっているんですよ。
そこから始まって、徐々に自分が住んでいるところの外に広がっていくというようなイメージで描きました。

主に制作したのは屋外で、東仁川という場所です。アートプラットフォームから徒歩20分くらいかな。散歩中に見つけた場所です。その日は、天気もよく気分もよかったので、あてもなく、迷うがごとく小道から小道へ進んでいたら、丘に行き当たった。とても天気のいい日で、昼寝をして、考えて…。とてもいいからまた来よう、ここで絵を描こう、って思って。そしてこの場所での制作が始まりました。
それから、今回も友人に宛てて絵手紙を出して、20通くらい新しいものができました。
雨が降るとスタジオに籠ることになるので、そんなときは主に絵手紙を描いていました。

Q. 仁川での出会いはありましたか?

プラットフォームの滞在作家たちとの交流はとても面白かったです。言葉の問題はありましたが、それでも一緒に出かけたり、身振り手振りでも、なんとか通じるものですね(笑)。
あと、太鼓をやっているので、今回は韓国の太鼓であるチャンゴをやりました。週2回。トランスミュージックで、やるとすっきりします(笑)。音楽のおかげで、言葉が出来なくても交流できた部分もあって、すごくよかったです。

余談ですが、横浜美術館でのアーティスト・イン・ミュージアムの際に(次の企画展の)「水の情景―モネ、大観まで」展に出展していたクォン・ブムンさんという韓国のアーティストにお会いしたのですが、横浜美術館の方が取り次いでくれて、滞在中に彼に会うことが出来ました。僕は束草(ソクチョ)にあるソラク山に登りたいと思っていたのですが、なんとそこにクォン・ブムンさんのスタジオがあって、5日間くらい滞在させていただいたんです。

Q. 街の人たちとも交流はありましたか?

そうですね、東仁川(トンインチョン)は下町で、近くに新興住宅地もあったりと、地元の人が多い地域だったんです。人の往来も多くて、制作しているとお菓子をくれる人がいたり(笑)。面白かったです。外見は韓国人も日本人も変らないので、よく話しかけてきてくれたんですが、僕は韓国語がわからないのでがっかりされてしまうこともあって。それは残念でした。

そういう方の中にキムさんという方がいて、僕が描いていると最初は遠巻きにこっちを見ていたのが、毎日少しずつ距離が近くなって、お菓子をくれたりするようになって、とてもよくしてくれました。キムさんは今回の作品にも登場しています(笑)。


Q. キムさんという方は、藤井さんのことを「絵を描いている方」と認識して、だんだん近づいてこられたんですか?

その丘の上にキムさんの家があって、その前の芝生でいつも書いていたんですよ。地面に直置きで紙を広げて、横に硯をずらーっと並べて。そんな感じなので、とても不思議だったようです。会話ができないのが本当に残念でしたけど、ただ、絵をみて、この場所がなんという場所だとか、あっちはなんとかという場所とか教えてくれたりしました。ものすごく親切でした。
あと面白かったのは、日本では一度も墨でスケッチしている人を見たことはなかったんですけど、韓国では、カルチャースクールでしょうか、屋外で墨でスケッチしているおばさんとかも結構いるようで、そういう光景に時々出会いましたね。

Q. 墨という素材に対する親しみが強いのでしょうか。

そんな印象でした。時々見かけるし、画廊でも墨絵がよく扱われていました。

Q. 3ヶ月の滞在のはじめと終わりで変化のようなものはありましたか。

この滞在で、最終的に40枚描きました。その間に季節が移り変わり、景色が変りました。気持ちも変りました。少しずつ言葉も覚えることができたので、それだけ親近感もわいて。でもそうやって慣れたころに帰国しなければならなかったのが少し残念でした。

Q. 仁川で制作した作品はどのように展示されたのですか?

まず12月11日から19日にかけて仁川のスタジオで展示を行ないました。13日までがオープンスタジオで、14日から通常展示という形でした。
それから、この2月10日から15日まで、ヨコハマ・クリエイティブシティ・センターで「Round Scape (-Yokohama-Incheon-Sokcho-)」という展示を行ないました。

仁川での展示風景

 

《Round Scape》, 2009 展示風景(会場:ヨコハマ・クリエイティブシティ・センター)

たくさんの紙に描かれた風景がつながって、一つの作品になるというスタイルをとりました。そして、一つの作品が実際の一つの風景というわけではなくて、絵巻のようにさまざまな風景を紡いでいくように描きあげています。

今回のテーマには、横浜から韓国へ渡り、そしてまた横浜へ戻ってくるという大きな流れがコンセプトとして背景にあります。僕は韓国に発つ前に、勉強がてら江戸時代に幕府と交流していた朝鮮通信使の日記を読みました。

『日東壮遊歌』という本で、朝鮮を発って対馬に到着し、江戸に向かう、そしてまた朝鮮に戻るという道中が詩歌の形式で日記にしたためられています。当時の交流の様子、日本という文化に出会ったときの驚きがダイレクトに伝わってきてとても面白かった。自分も横浜を出発点に韓国をめぐり、そして横浜に戻ってくる。そんな風景を作品にしたいと思いました。

Q. アーティスト・イン・レジデンスという目的で外国に滞在するという体験は、藤井さんにとってはどんな意味がありましたか?

他の人のやっていることを知る、ことでしょうか。それに照らし合わせて自分も考えるし、外国なので異なる文化に触れることができる。特に僕は水墨画をやっていますから、歴史的にも日本、韓国、中国という間で交流の深い分野で、昔からいわゆる「エクスチェンジ・プログラム」を繰り返してきたわけで、それに照らし合わせてみても面白いなと思いました。
レジデンスしている韓国の方で、文人画をやっている方がいて、その方に古典技法をならうこともできました。また行ってみたいですね。機会があれば今度は違う場所も訪れてみたい。

Q. 最後に今年の活動予定をお話いただけますか?

特に確定している予定はないのですが、このようなモチベーションのまま、外国や他の場所に行って、新たな景色に出会いたいと思っています。

プロフィール
藤井 雷さん藤井 雷[ふじい らい]
昭和56年生まれ。武蔵野美術大学造形学部日本画学科中退。
平成18年、横浜美術館で行われた「日本×画展」で、美術館デビュー。

 

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2010年2月25日発行号に掲載したものです。