なぜ、街にアーティストを招き、スタジオを開くのか。

Posted : 2012.10.26
  • facebook
  • twitter
  • mail
10月27日・28日、『関内外OPEN!』を通じて、横浜のアーティストやクリエイターが仕事場を街に一斉に開きます。「オープンスタジオ」は、一般的には聞き慣れない言葉ですが、ここでは、“自分の仕事場を公開する”という意味で使っています。現在、横浜でオープンスタジオを行うスタジオは170を超えています。 この流れは、どのようにしてできたのか。そこからは、わずか7年あまりで200を超えるアーティストやクリエイターのスタジオが横浜に誕生し、新たなコミュニティとして育まれてきた理由が見えてきます。そして、創造性に投資をしてきた横浜の精神、それに応えて活動するアーティスト達が日頃想う街への感謝と尊敬の念、その街との関わりを見せてくれます。

公益財団法人横浜市芸術文化振興財団
アーツコミッション・ヨコハマ
杉崎栄介

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年10月26日発行号に掲載したものです。

201210242240021655269201

はじまりは、北仲OPEN!から

2009年にスタートし、今年で4回目を迎える『関内外OPEN!4』の着想は、2005年の北仲OPEN!に遡ります。北仲OPEN!は、2005年5月~2006年10月の期間限定で築約80年の二棟の建物(旧帝蚕事務所と旧帝蚕ビルディング)を活用したプロジェクト「北仲BRICK & 北仲WHITE(以下、北仲)」(所有者:森ビル株式会社、企画運営:北仲BRICK&北仲WHITE運営ボード、 参照)で行われたイベントです。このビルに入居する57組のアーティスト・建築家・デザイナー達が、普段の制作スペースを一般に公開し、入居者間、入居者と市民、入居者と横浜を訪れる人々の間に、出会いと対話を生み出すことを目的としたオープンスタジオ・イベントでした。さらに、ビル内の至るところでワークショップや展覧会等が同時多発する複合型イベントでした。このイベントが始まったきっかけは、「これだけ集まっているのであれば、なにかやろう。」という数人の入居アーティストによる発案からで、その一言から瞬く間に賛同者が集まり、開催されたそうです。

このように、アーティスト等が集まった時に起きる創造的な発意が街にインパクトを与え、都市の成長を促します。これを初めて横浜にもたらした仕組みともいえるこの北仲の成果として上げられるのが、入居者による自治です。これは、マンションのような分譲型の集合住宅では当たり前の話ですが、賃貸住宅で住民自治が行われることは、現在ではシェアハウスなどを除き稀です。昔で言えば長屋における自治は当たり前でしたが、現代生活で失われつつある考え方の一つです。北仲は、運営ボードと呼ばれるオーナーと入居者で形成される会議の場で物事を決定していました。アーティスト等自らが創作環境を整えていく仕組みを有していました。

北仲への入居をきっかけに横浜に活動拠点を持ったアーティストやクリエイターは、自分たちのことを「住民」と呼んでいます。この「住民」感覚は、街を楽しむ第一歩であり、街に関わる当事者意識の表れでもあります。北仲の住民は、ほとんどが横浜以外の地域からの入居者だったにも関わらず、正に横浜らしさを体現してくれました。自分たちの活動場所を作ってくれた街への感謝を込めて、気軽に軽やかに自分のスタジオを開き、訪問者をもてなす。それは、常に人を迎え入れてきた港町・横浜の精神そのものでした。

引き継がれた北仲BRICK &北仲 WHITEの発想

北仲が開かれた時は、折しも今の「創造都市・横浜」の方向性に大きな影響を与えた横浜トリエンナーレ2005(ディレクター:川俣正氏)が開催されていました。山下埠頭3号、4号上屋、それから街中の至るところでインスタレーションが展開されたこの横浜トリエンナーレは、横浜の人に都市と芸術の関係性について強烈な印象を残し、未知なるものへの期待感が街に与える影響を実感させるものとなりました。そして、横浜市の職員を始め、このトリエンナーレに関わった人々は、歴史的建造物や倉庫等など、未利用の空間が“創造性”により街に開かれていく価値を認識し始めます。こうして、横浜市の創造都市戦略と民間の実行力が引き継がれる関係が構築されていきます。北仲は、約1年半という短い期間限定のプロジェクトでしたが、その活動は、ZAIM(旧関東財務局・労働基準局の暫定活用、所有者:横浜市)や、本町ビルシゴカイ(本町ビル、所有者:有限会社本町ビル)という新たなプロジェクトへ引き継がれ、2006年BankART桜荘に始まる初黄・日ノ出町地区とアートが出会うきっかけを作り、創造都市・横浜の歴史となっていきます。

この頃から芸術不動産という言葉が生まれ、アーツコミッション・ヨコハマの構想、クリエイター・アーティストを横浜に誘致するための助成制度が組み立てられ始めます。この芸術不動産の発想は現在に至るまで、多くのアーティスト、クリエイターの活動の場、スタジオを街の中に生み出し続けています。

201210242207101884620657

アーティスト等が街中に活動の場を持ち、その場を開いていくことは、まちづくりの視点のみならず、芸術文化振興の視点でも非常に重要です。非商業芸術は、社会に不可欠ですが、まだ観客創造が途上の分野です。美術や演奏会の鑑賞人口は、日本の全人口から比するとまだまだ小さく、ギャラリーで作品を購入するとなれば、その層はさらに絞られます。非商業芸術を振興する過程で一つのカギとなるのは、社会のインフラストラクチャーに関わることにあります。社会に不可欠なものとして芸術が浸透していく仕組みづくりが大切です。既に様々な場所で先駆者による成功事例が取り上げられています。芸術不動産は、民間不動産を有効なインフラストラクチャーとして捉え、そこにアーティストが関わることで、社会に直接的に働きかける芸術文化振興策の一つとして実施しています。

それぞれのオープンスタジオから関内外OPEN!へ

北仲BRICK&北仲WHITEと同時期に万国橋SOKO(所有者:株式会社宇徳)が開設されます。また、北仲が終了した後、一部の入居者は本町ビルシゴカイやZAIMに移ります。こうして、横浜都心部に次々と集合スタジオが誕生し、それぞれがオープンスタジオを自主的に開催していきます。これらのオープンスタジオは、当時はそれぞれが別日程で個別に開催されていました。それを近隣住民と、「横浜クリエイティブシティ国際会議2009」にあわせて国内外から来浜する専門家の方々に創造都市政策の成果として見ていただくことを目的に、『関内外OPEN!』を始めました。これには、2008年に横浜市からアーツコミッション・ヨコハマが引き継いだアーティストやクリエイターの誘致で横浜に移られた人々を街に紹介し繋げていくことも目的としました。『関内外OPEN!』のタイトルは、当時参加していたスタジオが、関内・関外エリアに位置したこと、『北仲OPEN!』の精神を受け継ぐ意味で名づけました。『関内外OPEN!』は、それぞれの集合スタジオの住民による自治的なイベントであることを尊重するため、アーツコミッション・ヨコハマの役割として、情報の編集者に徹する立場を取りました。記念すべき第一回目の『関内外OPEN!』のハイライト、本町ビルシゴカイが集まった人々で埋め尽くされたオープニングパーティーは、今なお記憶に残る創造都市のワンシーンです。この年参加したスタジオは34組です。

201210242207101644444628

2010年、2回目となる『関内外OPEN!2』は、前年の継続をしながら参加アーティスト、クリエイター間のネットワークを徐々に高めていきたいと考えていました。この年参加したスタジオは48組です。北仲系統と並ぶ横浜を代表する民間主導による創造拠点・万国橋SOKOで交流会を行い、参加スタジオの関係者の対話が少しずつ進みます。インフォグラフィックスとして評価が高い、現在の関内、関外のMAPの形が定まってきたのもこの年です。

3回目は、「ヨコハマトリエンナーレ2011」と同時期の開催でした。アーティスト同士、地域とアーティスト等をつなぐネットワーク形成をさらに進めるため、参加者が集う月例会議を始め、これまでの関内・関外に新しく横浜駅東口周辺を加えた横浜都心臨海部を対象エリアとし、さらにこれを6つの各エリアに分け、エリア毎にまとめ役となるリーダーを決めました。3か月にわたり、リーダーとエリアに拠を構えるアーティスト等が協力して地域毎のオープンスタジオを実施し、最後に全体を一斉に公開するオープンスタジオを行いました。あわせて、アーティスト活動を互いに知り、また一般の方にも知っていただくためのプレゼンテーション大会「デザインピッチ」を開催しました。オープンスタジオやデザインピッチは、アーティスト、クリエイター間の交流をより深めることを狙いとしたものです。創造都市の誘致により移転してきた彼らが交流する機会はほとんどなく、業務やプロジェクトでの連携も旧知の仲の範囲内で行われていました。一方で、北仲以降、より多様な職能が集積することに期待されていたのは、新たな出会いから生まれる相乗効果です。そのためにも、まずはお互いを知ることが不可欠でした。

この結果、関内外OPEN!を通して、アーティスト、クリエイターの間にこれまで決して多くはなかった出会いが生まれ、共同で行われる創造活動がこれまで以上に起きています。こうして、当初は合同開催のオープンスタジオを紹介する目的で始めた『関内外OPEN!』が生み出したネットワークの群は、クリエイティブクラスターとしての価値を高めていきます。
そして、第4回目を迎える今年は、ネットワークづくりから従来のイベントとしての位置づけをより重視しています。昨年のネットワークづくりが一定の繋がりを作ったこと、当初、関内・関外に集中していたアーティストがそのエリアをひろげ、アーティスト等が地域とアーティスト、アーティスト同士をまとめていくことが相当な負担となることを鑑みたからです。

今後は、創造都市政策がスタートする以前から横浜の街を支えてきたアーティストやクリエイターと新参入のコミュニティを繋げていくこと、アーティスト自らが不動産を開拓し、さらなる新規参入者を街に呼び込むこと、そしてそれらのネットワークと地域の企業や商店と具体的な連携を行っていくことが求められています。

評価と課題

誤解を恐れずに言うと、良くも悪くも北仲の発想で止まっているのが今の横浜です。アーティスト等による自治とそれが出来る環境づくりは、どの都市にもない試みです。横浜ならではの活動です。そして、多様性が街に生まれたことは、横浜の街にとって最大の成果と言っても過言ではないでしょう。ただし、社会の共有財産である公の場所を個人の活動場所に活用したとして、それを最終的には再び社会と共有していかなければなりません。これには、自分たちの活動をどう社会に還元していくかの視点が不可欠で、アーティスト等とACY双方がそれぞれの立場でやるべきことがあります。アーティスト等が生み出す、いわば出島のような場が有効です。ひょっこりひょうたん島のように漂流しているだけではなく、都市と繋がる橋を持つ島、そして、都市にはまだない新しいものが常に交流している場所。そこに住む人は、正に都市のエッジ(端)に立ち続け、最先端の活動をする存在です。その際、都市の中心部に取り込まれないよう注意深く進めなければなりません。その評価の定まらない場を保ち続けながら、成果の一部を都市に還元させていければ、都市を外部に拡張していく力となるでしょう。また、いずれその場が都市に呑み込まれてエッジを保てなくなったとしても、次のエッジを生み出していく原動力となります。

その中でACYは何をすべきか。都市に住む人々が芸術文化のリテラシーの共有することなしには、アーティスト等の活動は、大抵は都市が成長していく上で障害物と捉えられるかもしれません。アーティスト等は、まちづくりのために創作活動をしている訳ではないですし、自己を追究する中では奇抜とも思われる要求や行動もあるかもれません。このエネルギーを最先端とするのか、障害とするのかは、その都市の文化力が決めます。私たちは、この創造活動が生み出すエネルギーを評価し、説明し、戦略にしていくことが問われています。
■関内外OPEN4! 開催情報はこちらから
http://kannaigaiopen.yafjp.org/

■参考資料
『北仲BRICK&北仲WHITE EXPERIENCE』発行:森ビル株式会社
北仲の開設は、2004年3月~2008年3月まで旧第一銀行(横浜市所有の歴史的建造物)を運営していたBankART 1929の存在が大きい。BankART1929は、横浜市の都心部歴史的建造物等活用事業を通して行われたもので、行政所有の財産を民間主導で運営していく仕組みによるプロジェクトであった。北仲の建物は、この旧第一銀行の向いに立つ民間所有の歴史的建造物であり、行政財産とは別の仕組みで、民間財産を実験的にアーティスト等が活用することで街に開いていった事例といえる。この行政主導から民間主導へ先導を引き継ぐ流れは、この後の創造都市の流れを決める上で重要な事柄となった。

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年10月26日発行号に掲載したものです。