水辺が生み出す街の新たな価値とは? ~横浜水辺先案内人の物語 前編「BOAT PEOPLE AssociationからYOKOHAMA Canal Cruiseへ」

Posted : 2015.07.31
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水辺の新たな使い方、価値を見出す活動が、全国的に広がっている。最近、日本経済新聞記事でも大阪や横浜の事例が掲載されたばかりだ。そうした中、横浜で長年水辺の市民活動に取り組んできた人物がいる。山崎博史氏だ。彼の活動、経歴はとてもユニークなもので、今本拠としている「水辺荘」の取り組みは、着実に水辺のファンを増やしている。今回、そんな山崎氏に創造都市横浜に寄稿いただいた。街の住い手が当事者となり、身近な水辺を豊かに活用していくにはどうしたら良いか。また、その豊かさは精神的にも経済的にも街の新たな魅力になっていけるのか。前編、後編の2回に分けておくる。
前編「BOAT PEOPLE AssociationからYOKOHAMA Canal Cruiseへ」

文:山崎博史(水辺荘代表、合同会社チャートテーブル 代表社員、一般社団法人BOAT PEOPLE Association 理事)

撮影:船本由佳

撮影:船本由佳

 

プロローグ

「桟橋」。この単語から皆どのようなイメージを描くだろうか。大さん橋のような客船ターミナルから、公園のボートを繋ぐ桟橋まで、様々に及ぶと思う。では、その「桟橋」は自分がボートを所有していたとして、自由に使えるものだろうか? 港や川は道路と同じ公のもので原則航行自由だが、そこに陸側からアクセスするのは容易ではない、保安上、市街地の「桟橋」には管理者がいて、利用制限されている現状がある。安全管理は厳密に行われるとして、その「桟橋」を街に”開く”ことで、街の魅力向上、住民の豊かな生活を実現させ、新たな価値を生み出せないだろうか。今回の話はそんなところから始まる。

2015年5月23日。日の出町駅前再開発の関連施設として動力船及び非動力船を対象にした浮き桟橋「横浜日の出桟橋」が完成した。

この桟橋は、河川管理をしている神奈川県の横浜川崎治水事務所に届け出れば「非営利活動」についてのみ利用できる日常的かつ一般に開かれたものである。ただし、近い将来行政及び地元運営団体の主導により会員組織による「地域の活性化に寄与する収益事業」などにも対応できるよう新しい運用スキームを検討しているようだ。
もし実現すれば、首都圏全体でも数少ない先進的な取り組みとなるだろう。会員組織による収益事業が可能な公共桟橋は、東京日本橋桟橋や、スカイツリー下の桟橋を始め数カ所しかなく、横浜では、横浜グランドインターコンチネンタルホテル前の「ぷかり桟橋」のみである。

防災用桟橋や、社会実験のビジターバースなど、「桟橋」として整備されているものの、実際の運用ではまだ地域に住む人が自由に使える機会が少ない中、この新たに竣工した「横浜日の出桟橋」への期待は、とても大きくなっている。

また、非動力船用(手漕ぎ船、カヤックやSUP/Stand Up Puddle)の桟橋として、横浜・黄金町エリアに近接する桜桟橋、南区蒔田公園桟橋、大岡川河口の夢ロード桟橋の3箇所が存在する。これも県の治水事務所に利用届を提出すれば基本的には誰もが利用できるものである。これらの桟橋も将来的には同様に収益事業も可能な運用スキームの実験等進めるようである。

このように、横浜の市街地の水辺は少しずつ住民に開かれている。一方で、一般の人が港湾や河川のルールを十分に理解して利用できているとは言い難い。いわば、交通ルールを知らないまま道路を走るような状況も危惧されている。

さて、「横浜日の出桟橋」が開設されたことで大岡川にどのような変化が訪れるのだろうか?増加する動力船と非動力船との河川航行の共存や桟橋の管理体系など多くの課題が出てくることが予想される。

こうしたことを市民自らが取り組み、街や行政と連携しながら舟運事業者と協議し、誰もが安全に水辺を楽しめるようにしてゆけないだろうか。

横浜の水辺に関わり始めておよそ10年が経過した。現在私は、大岡川の桜桟橋という公共桟橋の近傍に「水辺荘」という小さな艇庫をベースにした市民活動団体を仲間と立ち上げ、毎週末その桟橋から河川に出るアクティビティーサービスを提供し、参加者と水辺の楽しさをシェアしている。

このコラムの前編では「水辺荘」の活動の礎となっているBOAT PEOPLE Association(以後BPAと記載)による東京、横浜の都市の水辺での活動実績を紹介する。後編では、現在の水辺荘の取り組みの紹介に加え中長期ビジョンを紹介する。

全くのよそ者であった我々が創造都市横浜の取り組みを活用し、地域コミュニティーと連携することで、いかに水辺を開いてきたのか。この話は、共感してくれた仲間と情熱をもって取り組んできた記録だ。公共空間の利活用に関わる市民活動の参考にしていただけると幸いである。

「2004年、創造都市横浜との出会い、BOAT PEOPLE Associationの立ち上げ」

私と横浜との出会いは、2004年の3月にオープンして間もないBankART1929代表の池田修氏を慶応大学の熊倉先生に紹介いただいたことだ。「食と現代美術」というイベントで、BankART studio NYKの建物(日本郵船海岸通倉庫)の前にひろがる運河を利用したワークショップを開催することがきっかけであった。

私は、学生時代から綺麗に整えられた都市の水辺が一種の混沌さを持っている様に強い関心を持ち、卒業設計のテーマとしていた。卒業後、大手ゼネコンの設計本部に在籍し湾岸のタワーマンションやホテルの設計を担当したことで、それは加速する。会社で湾岸の工場や倉庫地帯が急速に超高層住宅地に変容してゆくことに関っているうちに、人口が流入する水辺のコミュニティー形成や周辺の運河の利活用に関心が向いていった。もちろん、海や水辺で遊ぶのが昔から好きで大学のヨット部でレースに没頭したり、趣味でサーフィンやフィッシングもやってきた。

ただ、当時は、それ以上にアーキテクトという職能や都市生活に絡めた水辺との関わり方が思い浮かばなかった。

一個人として、都市の水辺にどのように関われば良いのか? 一人カメラを片手に運河沿いを歩き、ビルの裏側や高速道路の下に流れる河、漁村の面影残る船宿街や工場倉庫群などの港湾風景など、時代や空間の混沌とした状況をリサーチし、自分の中で「何か」を模索していった。

そんな折、NPO法人地域交流センターが開催していたE-BOAT(10人乗りゴム製カヌー)を使った都市河川クルーズに参加し、河川利用という視点からの水辺への関わり方のヒントを得ることができた。この後、この活動を介して様々な場面で人との出会いを繋げていった。

その縁を辿り、遂にBOAT PEOPLE Association(BPA)というグループを、NPO地域交流センターに所属していた井出玄一、慶應大学 坂倉京介、鹿島建設 山崎博史、同じく鹿島同僚のY.F(全て2004年当時の所属)の4人でプライベート企画として立ち上げた。都市の水辺を利用した街づくりのあり方について議論し、小さな実践を起こしていく事を目論んだ会だ。その中で、井出が芝浦の運河に実験的に開店していたバージ船(艀)を転用した水上BAR(Life On Board:2000〜2002年で行政指導により閉鎖)を法律に適した形で再度実現させることを目指し、水辺に魅力を感じる人達のサードプレイスとして活用できないかと議論、場所のリサーチを重ねていた。

BPAが活動し始めた2004年の都市の状況はというと、巨大なタワーマンションが臨海や河川沿いに林立し始めた頃であり、復活を目指したバージ船空間は、こうしたドライな街区におけるヒューマンスケールな水辺の妖しさをまとった隠れ家的な存在としてイメージしていた。この動きに坂倉の恩師である熊倉敬聡先生(元慶應大学教授、現京都造形大学教授、フランス文学者、三田の家などの運営に携わる)に興味をもっていただき、具体的に実現可能性のある場所としてBankARTを紹介してくれたと記憶している。

2004年BPA発足時。東京の港湾を中心にリサーチ。

2004年BPA発足時。東京の港湾を中心にリサーチ。

BARGE VILLAGE による「浮動産価値」を提言。

BARGE VILLAGE による「浮動産価値」を提言。

BankART Studio NYKの水辺を開く。

BankART Studio NYKの水辺を開く。

 

BankART studio NYKは元日本郵船の倉庫を転用したアートスペースのため、運河に面し、荷揚げ用の私有護岸を備えておりバージを係留するには申し分のない設えであった。実際に、この辺りは新港埠頭が保税倉庫の拠点として使われていた頃は、郵船プールと言われた平水面の艀溜りであった。このとき、アートスペース前の水辺にバージを転用した水上カフェを併設し、この場所ならではの強いコンセプトをもったパブリックスペースを創っていこうという目標を掲げた。その手始めとしてとして護岸と運河を使ったワークショップを開催することとなった。

当時の提案模型とイメージスケッチ。

当時の提案模型とイメージスケッチ。

 

今も存在するが、当時から護岸には越後妻有トリエンナーレからアトリエ・ワン設計のホワイトリムジンが移転されており、イベントは、我々がこの屋台を使って水辺のパーティーを開くことを核とした。イメージはアジアの水辺のマーケット。おそらく高度成長期の直前まで横浜の運河も、物流のインフラとして利用されていたので、似たような光景があったのではと推測して行った。計画段階では、BankARTからボートで中央市場まで食材を買いに行くつもりであったが、実際は、中央市場までの距離、港湾を横断するリスク、市場側に上陸場所が見当たらない、市場の開催時間帯の不一致などの点で実現不可となった。代わりに大岡川をさかのぼり、日の出町駅前の長者橋で橋の上から近くの商店街で調達した食材を降ろしてもらった。この一連の試みを一般参加者にも水上で共有していただく事で、現在の都市河川の不自由さや問題点、違和感を体験してもらうこととした。なお、このとき、まだ大岡川にあるさくら桟橋は開設されていない。

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このワークショップが我々の横浜の水辺との出会いとなり、BPAの初の公開イベントとなった。時間としては1時間半程度のクルーズであったが、橋からカゴを吊るして食材を手渡されるという行為に思いのほか高揚し、川沿いの通行人の注目を大いにひくものとなった。現在では断絶されている陸上と水面との物(食材)を介したコミュニケーションを可視化でき、運河が本来持っていたインフラとしての記憶を蘇らせた。この一連の行為により、都市の水辺の眠っていた可能性を垣間見たような気がした。水路を遡ることで、陸上交通とは違った都市の距離感や空間認知を体験でき、橋をくぐるたびに広がるシークエンスの変化に都市河川の「その先の何か」に心踊らされた。このワークショップ実現のために感じた都市の水辺の問題点はその後のBPAや水辺荘の活動趣旨のベースになっているように思う。当時メンバーとのコミュニケーションの中で新しいビジョンが次々に開け、言語化されていた時期であった。

「横浜トリエンナーレ2005の試み」

この試みが横浜トリエンナーレ2005のキュレーターであったP3芹沢高志さんにつながり、実際に中古艀を購入して水上ラウンジを作品としてトリエンナーレ会場に係留することとなった。たまたま山下埠頭という港湾に面した会場設定であり港湾固有のコンテンツが求められていた事が幸いした。バージを転用し、農業用ビニルハウスで大屋根をかけるという独創的な水上ラウンジを大胆に実現させたため、広い層に記憶に残る作品としていただけたようだ。様々な幸運が重なり、坂倉を除き現代美術の素養の無い我々が、突然現代美術の国際展に出展するという有り得ない状況が実現してしまった。しかも、通常の法規制の中では極めてハードルの高い3ヶ月に渡る水面占有と係留、不特定多数の観客の乗船などを「作品展示」として実現してしまった。横浜トリエンナーレ2005という行政も含めた試みが生み出した公共空間の活用について大きな可能性を感じた。この頃から公共空間と現代美術という文脈の中で水辺を語る流れがBPAの中にできあがり、その未開拓な可能性にすっかり魅了されていった。

話は前後するが、横浜トリエンナーレの出展が決まりかけていた頃、当時中央区八丁堀の亀島川河岸で水辺カフェを実現しようと取り組んでいた(近隣の合意を得られず断念)。現在、一緒に水辺荘を運営している建築家の岩本唯史も加わり、ここにBPAの主要メンバーが構成された。その後、江東区潮見の廃棄物処理業者に廃棄処分予定の中古バージがあるとの情報が入り、現物確認の上購入した。

約70平米の鉄の箱を曳航。

約70平米の鉄の箱を曳航。

京浜運河を下り、横浜港に入港。

京浜運河を下り、横浜港に入港。

無事トリエンナーレ会場である山下埠頭に到着。

無事トリエンナーレ会場である山下埠頭に到着。

 

 

江東区から横浜山下埠頭まで、京浜運河を縦走するテクノスケープクルーズへ出航、梅雨明けの真夏の太陽と京浜運河の金属質の光景が忘れられない。まるでガイドブックに記載の無い異文化の都市へ入り込んだような興奮を覚えた。今でこそ工場夜景クルーズは横浜をはじめ東京湾の主要な観光コンテンツとなっているが、当時まだ『工場萌え』も発売されておらず、工場景観を愛でるカルチャーは、ドイツでは廃業した工場をそのまま公園化するなどで市民権を得ていたものの、日本ではまだまだアンダーグラウンドなものであった。

このときの航海が我々にとって、その後10年も続くとは予想しなかった都市の水辺探索への長い船旅の始まりであった。潮見を出港してから約3時間後、横浜ベイブリッジの向こうに統制のとれたみなとみらいのスカイラインが見えてきた時の興奮は忘れられない。

そして、山下埠頭到着後、波の影響を受けにくい新山下の艀溜まりの一角を提供いただき、バージ転用の「水上ラウンジLOB13号計画」の作品制作を開始した。購入した艀が尾竹型13号という名称であった事や、Life On Board(船上生活)というコンセプトからそのようなネーミングとした。その頃、トリエンナーレボランティアスタッフとして制作協力に来てくれたのが墨屋宏明で、彼は後にBPAに加入する。

艀組合の協力により、新山下に場所をお借りし作品制作に着手。

艀組合の協力により、新山下に場所をお借りし作品制作に着手。

農業用ビニルハウスをセルフビルドで架構。

農業用ビニルハウスをセルフビルドで架構。

 

私は建築設計の実務をしていた事もあり、このプロジェクトの中で、工程・予算管理などの実務的な調整と、議論したアイデアの図面化、係留方法などの検討を担当した。ちょうど8月の夏休みを使い、仕事も忙しくなく、台風も来ない恵まれた環境での制作であった。作品のコンセプト作成や具体的な空間の作り方については、メンバーが5名もいたため合意形成に大変多くの時間を費やした。この頃から、メンバー間のカルチャーの違いを遠慮せず議論する空気ができつつあった。なんとか9月のトリエンナーレ開催に間に合い、達成感とこれから始まる祭典への高揚感に包まれたのをよく覚えている。会社の業務で高額物件を担当したりもしていたが、それと比較しても遜色のない達成感をこの水上の小屋に対しても得る事が出来た。私の人生にとっても大きな転換点だったように思えてならない。

撮影:淺川敏

撮影:淺川敏

その後、3ヶ月に渡り、週末のみであったが新鮮な体験を得る事が出来た。今考えると期間中こそ大変なチャンスが転がっていたように思うが、我々は水上ラウンジの保有という飛び道具に満足してしまい、そこから生み出さなくてはならないプログラムの質が拙く、やはり作家としてはまったくの素人集団であったことを後日実感させられた。ハードの設計を生業としていた私の中ではこの問題はその後大きなテーマとなった。とはいえ、P3芹沢氏や各分野の港湾行政職員、デベロッパー、海洋ジャーナーリスト、水辺アクティビストを招いてのバージ船上会議はその後の展開につながり、船上ならではの強い求心力のある場の力を実感した。

都市の水辺を議論する「船上会議」。

都市の水辺を議論する「船上会議」。

 

トリエンナーレが終了し作品としての特別な枠組みを外されると、魔法が解けたように「水上ラウンジLOB13号」はリアルな「艀」となってしまい、あらゆる法規制にさらされることとなった。しばらくはBPAの船上会議でのビジョンに共感していただいた当時国交省関東地方整備局京浜港湾事務所の難波氏の協力で、コットンハーバー横の国交省所有の護岸に係留場所をお借りし延命。その後、防災をテーマにした内閣府の調査プロジェクトにも推薦いただき、大井競馬場前の京浜運河の防災桟橋に3ヶ月以上係留した。橋を潜れるよう屋根の高さを抑え耐久性のあるものに改装し、その後タイミングよく開催されたBankARTでの「地震EXPO」にも出展でき、あのNYKの私有護岸に期間中のみバージを係留することが実現した。そこでは、防災をテーマに坂口恭平などの作家のトークイベントやコンテンポラリーアートの展示、ダンスの公演などLOB13号の第2ステージが実現した。イベント終了後はしばらく東京都の新木場の業務船置き場に紛れていたが、ついに2010年3月に廃棄処分することとなった。

大井競馬場前防災桟橋より京浜運河を下り横浜に向かう。

大井競馬場前防災桟橋より京浜運河を下り横浜に向かう。

念願のBankART NYK護岸に「防災船」として短期係留。

念願のBankART NYK護岸に「防災船」として短期係留。

大井競馬場前の防災桟橋。作家とのコラボレーション。

大井競馬場前の防災桟橋。作家とのコラボレーション。

 

購入後5年に渡り居場所を求めて京浜運河を漂流する状況も終わりを告げ、千葉県袖ヶ浦の造船所で廃棄処分された。この、バージを係留するという体験から、水辺という都市のエッジにある境界、公共性、管理体系、既得権益、都市インフラという社会的な側面、水辺の持つ妖しい魅力、水上での意識の変容などの抽象的な魅力など…、様々なレイヤーが交差していることを学んだ。BOAT PEOPLEという現代の都市制度に対し皮肉を込め遊び半分で命名したグループであったが、まさかここまで公共のあり方を問い続ける活動に発展するとは予想していなかった。

コットンハーバーに隣接する国土交通省護岸にて。

コットンハーバーに隣接する国土交通省護岸にて。

 

バージというBPAのアイデンティティーに等しいアイコンを手放すことで、今後どのように都市の水辺に介入して行けるのかの根本的な戦略の転換を迫られた。バージの無い活動に興味がなくグループを去る者もおり、空間の持つ求心力について深く考えさせられた。これからは拠点も空間も持たない状況で活動していかなければならない。解散か、一から出直しかという状況であった。

バージ=艀(LOB13号)を手放すことのメリットもあった。手間のかかるスペースの維持から解放されたことで、メンバー間での話題も自由になったように感じた。もの珍しいスペースを所有しているということだけで、皆が活動に興味を持ってくれていた状況は終わった。まずは、原点に戻り詳細な運河リサーチを再開させようと思った。ただし、自分たちだけでリサーチしていても広がりが持てない。リサーチ自体を楽しめるイベントにしてみたらどうだろう? そこで生まれたのが、YOKOHAMA Canal Cruiseという試みだ。

この企画は既にLOB13の存続が危ぶまれていた2008年より仕掛けてした。オープンデッキの船をチャーターし、陸上からはアクセスできない、しかも通常の屋根付き動力船では潜れない狭くて橋の低い運河を徹底リサーチし、未開の横浜の風景を探すツアーを開催したら面白いのではないだろうか? なにより、BPA的な世界観をこのツアーの中で共有できるのではと考えた。ちょうど、アーツコミッション・ヨコハマ(以後ACYと記述)の先駆的芸術活動助成の募集があり、この資金を元手に実施できないかと考えた。

このクルーズは一見観光だが、コースの組み方や解釈を「新しい風景を見つけ、アートスペースとしての新たな水面価値を発見するワークショップ」と位置づけてみた。当時、その助成制度の審査員が第一回目のクルーズに乗船くださった。結果的にこの運河ツアーならではの見たことのない横浜の風景のシークエンスを楽しんでもらえ、趣旨を評価いただき大変嬉しく思った。審査を通って助成を受けられたため、天候リスクなども怖がらず、思い切った企画で徐々に集客を伸ばし、バージの時の現代アート系の文脈とは違った水辺ファンを獲得していけたように思う。BankARTやトリエンナーレの時もそうだが、このような個人の想い、試みに手を貸してくれるのが創造都市横浜の素晴らしい一面であると思う。

その後、この企画は3年に渡って「関内外OPEN!」(2009~2011年)に合わせて開催され、全便ほぼ満席に近い状況になっていった。この活動は同時に、東京都歴史文化財団と東京都の共催プロジェクトである東京アートポイント計画(TAP)初年度2009年度企画につながり、東京中の運河をくまなくリサーチするプログラムに発展していった。このTAP計画に参画するにあたって、法人化する必要があり、BPAは一般社団法人となった。

こうして、東京、横浜の運河についてはくまなくリサーチし、水辺の景観、水辺のアクセス、行政区分、テーマ型コミュニティーの形成と集客、イベント運営ノウハウなどその後の水辺荘の活動につながる知見を形成していった。

東京の水辺で一般参加可能なリサーチワークショップを開催。

東京の水辺で一般参加可能なリサーチワークショップを開催。

グラフィック:杉浦貴美子

グラフィック:杉浦貴美子

後編「水辺荘の立ち上げと横浜のこれから」に続く。