2022-11-25 コラム
#パフォーミングアーツ #助成

反骨と批評の精神がのちに堆肥となるダンスを目指す――振付家・ダンサー 下島礼紗さん

アーツコミッション・ヨコハマ(ACY)が次世代のアーティストのキャリアアップを支援する「U39アーティスト・フェローシップ助成」。2021年度フェローシップ・アーティストの1人が振付家・ダンサーの下島礼紗だ。 下島が主宰する「ケダゴロ」は、日本のダンスシーンでは稀にみる、実際に起きた事件や社会問題を題材とするジャーナリスティックな作品で知られるカンパニーである。

(※)

 

下島礼紗は、横浜ダンスコレクション2017で、コンペティションⅡ新人振付家部門の「最優秀新人賞」のみならず、本来はシニア部門のコンペティション1を対象とする「タッチポイント・アート・ファウンデーション賞/ボディラディカル賞」をダブル受賞したことで一躍注目された。

この賞はハンガリーの同名の財団により選考され、受賞者には同地での上演の特典が与えられる。審査に招かれた女性のディレクターが、若手のコンペで下島を発見した喜びを興奮ぎみに語った授賞式のスピーチは感動と共に記憶に残るものだった。

 

「裸の王様」を嘲笑う幼児という視点

その受賞作である『オムツをはいたサル』の舞台で、彼女はたった1人で人類の進化あるいは退行の道程を遡ってみせた。大人用の紙おむつと類人猿を思わせる毛むくじゃらのブラトップを身につけた下島は、溌剌とした動きでその頼りないコスチュームを一枚一枚脱ぎ捨てていく。

何枚おむつを剥いても、そこにいるのは妙に根性の座った小さなおサルだ。だがその向こうに透けて見えるのは、がんじがらめの社会の機構の中、悶えながら自由の在処を求める、したたかに進化した野人の姿だった。下島の代表作であるこのパフォーマンスは各地で再演を重ね、国籍や世代を超えて観るものを揺さぶってきた。

『オムツをはいたサル』 ©︎Tsukada Yoichi

『オムツをはいたサル』 ©︎Tsukada Yoichi

下島「この作品は栗本慎一郎氏の著作『パンツをはいたサル〜人間とは、どういう生き物か〜』からインスピレーションを受けて創作しました。著者によれば、ヒトは裸のサルが余分なパンツをはいた生き物です。ヒトはパンツを脱いだり、脱ぐ素振りで異性を誘ったり、システマティックにおかしな行動をとる。本書では、性行動・法律・道徳・宗教などをパンツという表現に置き換えてヒトの行動を説明しています。

私のソロ作品『オムツをはいたサル』は、その中の宗教に主眼点を置いて、1995年にオウム真理教が起こした「地下鉄サリン事件」とコネクトさせました。おむつをはくのは自分で排泄を処理できない赤ちゃんと老人です。世の中を動かしているのはおむつではなくパンツをはいた世代ですが、彼らはロジカルに説明することのできない愚かな行動をとる。退行ともいえるそのおぞましさに気づいてほしい。そのためには、おむつをはく者の側からの視点で人間社会を俯瞰し、真似をして嘲笑うことが必要だと考えました」

昭和から平成にかけて日本社会を震撼させた凶悪テロ。洗脳によって築かれた権力構造。集団の中に醸成された同調圧力の言い知れぬ不気味さ。

それらに触発された下島の「裸の王様」を指差す幼児という独自のスタンスは、痛快かつ「痛すぎる」ケダゴロの作品世界を貫く圧倒的な特徴となった。

下島にとってオウムの事件はある種の原風景であった。生後まもなく芸術家の父とフランスに渡り、3歳のときに帰国した日が1995年3月20日、地下鉄サリン事件の日だったという。羽田空港のテレビで流れていた、ブルーシートに大勢の人が横たわる映像はいまもフラッシュバックする情景であり、彼女が「初めて認識した日本」だった。

 

(※)

 

集団の権力構造や同調圧力に斬り込む創作


下島
「隔離された閉鎖的な世界で生きている集団という状況が、自分の原風景として鮮明にある。だから、心配され愛情をかけられていたところに回帰したい、解脱したいという気持ちが特別なものじゃないということも理解できる。そういった視点をいったん自分から切り離して創作の根底に置くことで、現象の背景にある所以を探ろうとしています。あえて抽象化はしていません。実際の事件や現象をそのまんまやって何が悪い、ダンスは自由でしょ、と」

『sky』 ©︎草本利枝

『sky』 ©︎草本利枝

 

ケダゴロを結成後、横浜ダンスコレクション2018の受賞者公演で発表した『sky』(2018年初演)では、連合赤軍のリンチ殺人事件など、集団における狂気や同調圧力というテーマに真っ向から斬り込んだ。下島の群舞作品の中でも特にダイレクトで激烈な表現が用いられている。

ダンサーとして訓練されていない出演者たちは、紙オムツなどをつけ、演技の域を越えた必死の形相で激しい運動を何度も繰り返す。なかでも重い氷塊を抱え、苦痛の限界まで耐えるシーンは虐待やいじめをあからさまに連想させる。

暴力性を内面化しかねないキワまでダンサーたちを追い込むその演出に唖然としつつ、無意味な罰ゲームに挑む人間の滑稽さには笑いも漏れた。

下島「クリエイションではもっとやばいことが起きていました。アイデア出しの段階で、総括ジャンケンというゲームで殴り合うとか、目隠しをして壁に激突するとか。メンバーたちが私に言われたことをあまりにもそのままやるので、なんでやるんだろう?という疑問が生まれました。振付家とダンサーのヒエラルキーや、集団のイデオロギー、目に見えない圧力といったことに対する問題意識から、どこまで無茶できるかを見せようと思ったんです」

この経緯を聞いて連想したことがある。

ひとつは「ミルグラム実験」、あるいは「スタンフォード監獄実験」といった、20世紀にアメリカの大学で行われた社会実験である。いずれも閉鎖的な状況における権力者と服従者の心理を実験したもので、後年映像化もされている。

もうひとつは、現代美術家のマリーナ・アブラモビッチやオノ・ヨーコが20世紀中頃に行った、自身の生身の身体を鑑賞者の自由意志に委ね、集団心理を炙り出した実験的なパフォーマンスアートだ。最初のうち彼らはおそるおそる遠慮がちにアーティストの身体に触れる。ところがある1人のちょっとした攻撃的なアクションを合図に、彼女たちの身体を傷つけるような行為を加速度的に暴走させていく。

これらの実験の結果とケダゴロの創作プロセスを重ねると、下島の意図する表現が逆照射されて見えてくる。

(ただしこれらの社会実験の被験者はすべて男性であり、女性作家のパフォーマンスで暴力的な行為に及ぶ者もほぼ男性である。一方ケダゴロの出演者はほとんどが女性のパフォーマーだ)

 

社会的弱者を生む構造の歪みを暴き出す

下島「子どもの頃、焚き火でウィンナーを焼いたりする野蛮人ごっこが好きでした。例えばバケツに蟻を集めて、這い上がってきた者から焼く……って言うとサイコパスみたいですが、そういう遊びがケダゴロの創作プロセスに踏襲されている気がします。

ケダゴロの稽古場は笑いがあって、意外と和気あいあいとしています。例えば、現実の正しさとは違う基準でルールを作って、ゲーム感覚で勝ち負けをとことん意識させる。苦痛に耐えてついてこられた者が残り、連帯感と自己肯定感が生まれたところから、共犯関係を作っていく。大きな遠回りとも思えるプロセスですが、一度そこまで追い込まないと信じられないこともある。夢見ちゃおしまい、地獄を見てもらわなきゃと。

同じ環境にいる集団においては、過酷で苦しい経験であればあるほど、共感性や陶酔感を実感し、承認欲求を満たすことができる。ケダゴロに参加したいと集まる人たちは、そのカタルシスの危うさに対して自覚的です。

もともとダンサーとして自己肯定感が低い人が多く、これくらいやらなきゃ自分は舞台に立てる人間じゃないと思って頑張るんです。オーディションでは、しんどさを我慢して見せない人より、素直に見せた人を採用することが多いです。吐いてきていいですか?と聞いたダンサーがいましたが、それは清々しいと思いました」

(※)

 

ダンスの稽古場としてはあまりにもアナーキーだが、俯瞰してみれば実社会の縮図とも捉えられる。ますます苛烈な格差と分断が広がるこの社会は、孤独や生きづらさを感じて生きざるをえない弱者を生み出してきた。満たされない承認欲求や自己肯定感を抱えて集団幻想に身を投じ、精神的な拠り所を見出そうとする若い世代は現実に多いのではないか。

ダンスカンパニーの集団的狂気を表現する作品を通して、下島は現実の問題を掬い上げ、提起しようと試みる。目の前で展開される過激なシーンに没入すればするほど、観客はVR(仮想現実)体験のようにダンサーたちの視点に潜り、社会的弱者を生む構造の歪みを実感し、問題意識を喚起されるのだ。

一方、早くも再演が実現した『ビコーズカズコーズ』(2021年初演)では、奇想に富んだプロットと空間構成を駆使して、ピカレスクロマンに彩られたダークスペクタクルを展開した。

1982年、愛媛県松山市で元同僚ホステスを殺害し、犯行後は整形手術を繰り返しながら5459日間に及ぶ逃亡劇を繰り広げ、1997年に時効成立21日前に逮捕された女、福田和子が本作の題材である。

とはいえ本作は実録のドラマ仕立てではなく、あくまで身体表現、むしろサーカスパフォーマンスに近いかもしれない。初演では舞台上に単管パイプを組んだジャングルジムが宙吊りにされ、グラグラと揺れていた。

その密林を縫って、福田を象徴する複数の女性ダンサーが逃げまどい、刑事に見立てられた男性ダンサーが女たちを執拗に追う。その目眩く疾走感と寸分の狂いも許されないコンビネーションは圧巻だ。

「地球には重力があるらしいんよ」福田の言動から着想したこの飄々としたフレーズを起点に、女が幽閉された地球という檻、そして彼女の引力に撹乱された人間模様を超絶フィジカルに表現しようとする。

『ビコーズカズコーズ』 ©︎bozzo

『ビコーズカズコーズ』 ©︎bozzo

 

下島「なんでいまごろになって福田和子を作品化しようとしたのか、とよく聞かれます。逮捕されて列車で護送される画像を見た時に、バッキバキのオレンジ色の服が印象的だったんです。犯罪者なのになんて華やかなのかと思うと同時に、胸元で乱れた襟に無念さが現れていて痛かった。

福田の逃亡の過程や、獄中でレイプに遭ったことなど詳しくリサーチしてみると、自分が生きてきた時代ではないのでむしろ客観的に俯瞰することができた。福田の生きた景色を象徴的な色彩や形に落とし込んで、ビジュアル化してみたいと思いました。

例えば、『sky』で扱った連合赤軍事件にしても、街中でなく雪山の山荘に立て籠ったとか、鉄球で建物を破壊して突入したとか、差し入れのカップ麺が注目されるようになったとか、そういう背景にロマンを感じます。同じように福田の事件にもワクワクするような暗いスペクタクルの要素がある。さらに危険と隣り合わせのエンターテインメントという闇を持った空中サーカスとして舞台化しようと考えました」

初演の制作期間はコロナ禍で思うように集まることができなかった。再演でも引き続き困難な状況が待っていたが、ケダゴロならではの胆力でクリエイションを進めているという。

下島「ダンサーという生き物は、煽られれば煽られるほど自分を認められたいと思い、自身の輪郭を見つけようとします。この作品ではさらにコロナ禍が招いた忍耐というマインドコントロールみたいなものがかかっているから、いまはただぶら下がれることが嬉しい。ツアーに向けて、際どい精神のバランスを保ちながら、楽しく苦行に励んでいます。

初演は小劇場でしたが、再演は中規模の会場なので舞台のセットを組み替えなければならないんです。没入感を出すことが難しい代わりに、世界の一部に見えるような空間にしたい。知られざる福田の内と外を覗き込むような構成を考えているところです。この作品は解釈を深めるほど社会が見えてきます。答えは出ないけどインスピレーションを大切にして創作したい」

また、今年発表した最新作『세월』(2022年初演)では、多数の犠牲者を出したセウォル号沈没事故に向き合った。隣国の未解決の事件というデリケートな題材に果敢に取り組んだ本作は賛否両論の批評を浴びたが、下島自身は再演に意欲的だ。

『세월』 ©草本利枝

『세월』 ©草本利枝

 

下島「本国とは時間軸も距離感も異なるからこそ、あくまで日本人が自国のダークサイドを踏まえて、自分に引き寄せて他国の事件に対峙するというスタンスを保ちたい。観客自身もその出来事との距離感を自分自身で確かめ、思考のフックにして議論が生まれていく。具体的な題材をもとに作品作りをしているのは、そういったコミュニケーションの可能性を感じているからです」

下島は創作のモチベーションは常に自身の中に燻る「反骨」の精神にあると自覚する。

コンテンポラリーダンス(現代舞踊)という分野は、世紀を跨ぐほどのその歴史の中で、鍛錬された強靭かつ美的な「個」の身体性と、時空の軸を超える抽象性を強みに発展してきた。下島が自身のコンプレックスや反骨心の対象と公言し、批評的に注視してきたのは、まさにその素養と技術に裏付けられ、雄弁に場を支配する主体的な身体への過大評価だ。

一方で「よさこい」にのめり込んだ10代の頃から今日まで、下島にとってダンスをめぐる価値基準となったのは「祭り」である。寺山修司や唐十郎が確立したアングラ演劇の様式に憧れるという下島が目指すのは、土着的に場に根差しながら、正も邪もあわせ飲み、非日常の高揚感を身体に宿らせる「祭り」としてのダンスなのだろう。

「ケダゴロ」という泥くさい響きを持つ言葉は鹿児島弁で、土に転がった、いずれ肥やしとなる獣の糞を意味する。「土に還ってまた循環していく、見た目の美しさじゃない美しさ」を意図したと下島は語る。

芸術の標榜する美学や精神性までが綺麗事と冷笑されるほど殺伐とした時代。下島礼紗のかなり危なっかしい表現は、暴れまくってのちに養分となる肝腎な体験として、苦しみの日常を生きる人々に届くと信じたい。

取材・文:住吉智恵(RealTokyoディレクター)
(※)写真:森本聡(株式会社カラーコーディネーション


©佐藤瑞季

【プロフィール】


下島礼紗(しもじま・れいさ)

振付家・ダンサー。7歳から地元鹿児島でよさこい踊りやジャズダンスなど様々なダンスに取り組む。桜美林大学在学中に木佐貫邦子にコンテンポラリーダンスを学び、以降はダンス、演劇を問わず客演を重ねる。2013年「ケダゴロ」を結成し、以降、全作品の振付・構成・演出を行う。自身のソロ活動も併行して行い『オムツをはいたサル』(2017年初演)は国内外10カ所以上のフェスティバルで上演し多数の賞を獲得。横浜ダンスコレクション2017「最優秀新人賞」「タッチポイント・アート・ファウンデーション賞」受賞。2021年には韓国国立現代舞踊団委嘱作品として『黙れ、子宮』(振付・出演)を上演。2022年度より公益財団法人セゾン文化財団セゾンフェローI。

 

【インフォメーション】

『ビコーズカズコーズ Because Kazcause』秋田・東京・静岡 ツアー公演


秋田公演 
「踊る。秋田」Vol.7 特別提携公演
日時:2022年11月30日(水)14:00~※昼割り公演/19:00~
会場:あきた芸術劇場ミルハス<小ホールB>

東京公演
日時:2023年1月12日(木)~15日(日)
会場:東京芸術劇場シアターイースト

静岡公演
「Choreographers 2022」静岡公演
日時:2023年3月2日(木)
会場:静岡市清水文化会館 マリナート<小ホール>

詳細:https://www.kedagoro.com/next

LINEで送る
Pocket

この記事のURL:https://acy.yafjp.org/news/2022/75919/