提起する人−アーティスト・俳優、武田力さん

Posted : 2017.02.15
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横浜から世界へと発信するアーティストの発掘&育成を目的として、アーツコミッション・ヨコハマが2016年から開始した「 創造都市横浜における若手芸術家育成助成 クリエイティブ・チルドレン・フェローシップ」。武田力さんは今年5月の発表を目指して、3年がかりでフィリピンと日本を行き来しながら作品を作り続けている。

“タコ”のメタファーを食する作品が喚起するもの

2017年5月10日から21日まで、フィリピンのメトロマニラでは舞台芸術の国際フェスティバル「Karnabal」が開催される予定だ。そこで作品を発表するため、武田力さんは2015年から映像&パフォーマンス作品をフィリピンで制作している。タコ焼きを作って、それを現地の人たちと一緒に食べることをテーマとする作品だ。それを聞いて「楽しそう」とすぐに思うことなかれ。実はこのタコ焼きには深い意味がある。

作品の要となるのは、日本人にとってはおいしい食材のタコである。丸い頭に8本足、ちょっと滑稽なイメージもある生物である。海底の暗い中でも目がきくから眼病治癒にご利益があるという民間信仰もある。しかし、独特の形態からデヴィルフィッシュ(悪魔の魚)と呼んで、食用を忌避してきた国もある。そして武田さんの語るタコにはさらなる陰の部分があった。

「タコは、春画のモチーフになったり、日本を含む欧米列強が帝国主義を敷いている時代には侵略の象徴として多くの国で用いられていました。またタコは雑食で何でも食べる。フィリピンの海には戦争の犠牲者が多く沈んでおり、もしかしたらタコは海底で彼らの死体を食べているかもしれない。僕はそんなタコのメタファーをタコ焼きに込めるのです」

フィリピンではタコは常食されていない。世界的な日本食ブームで、タコ焼きもフィリピンで売られるようになったが、そこにはイカやチーズが入っていても、本物のタコは入っていないことがほとんど。作品をKarnabalで発表すると決まった時、現地に住む日本人と話していて、なぜフィリピンのタコ焼きにはタコが入っていないのかという話になった。疑問から興味が湧いて調べ始めた。そして初めてタコが持つたくさんの意味に気づいたのだった。

小さな島々からなるスラム地区、ナヴォタスをつなぐ小舟。タコがいるフィリピンの海。

庶民の市場、キューマート。魚屋の前で。

 

「タコ焼きを食べて、身体の中にいろいろな意味を付与したタコを入れる。それがどのようなイメージを生み出すのか? 時間と共にそのイメージは体内でどのようにふくらんでいくのか? それを一緒に話したり、考えたりしたい。そして作品の重要なテーマである戦争について、食べた人や観客と思いを巡らせることができるプラットフォームを作りたい」

たとえば先の戦争について、国家間では戦後補償がなされているが、個人間での和解はどうだろう? そもそも和解とはどのようなものなのか? 特に戦争を知らない世代間の和解とは? 世代が変わっても、たぶん日本の人も、そしてフィリピンの人も積極的に触れたくはない戦争の記憶。しかし時が経ち、戦争を知る人が少なくなっていく今、あえて記憶を取り出さなければ戦争を見つめることができない、という思いが武田さんにはある。
しかし真意が伝わりにくい短時間のプレゼンテーションなどでは「日本人がこんなテーマを持ってくるな」「何の権限があって戦争の記憶を掘り起こすのだ」などと激昂されることもあるようだ。

「戦争を見つめる機会や場所を提供することは、ある意味での贖罪と考えています。新たな戦争を生まないように努めるのは日本人としての責務とも。日本に生まれ育ってきたからこそ、そして戦争の記憶が生々しい時期には不可能だったけれども、遠くなりつつある今だからこそできる作品だと思っています」

武田さんは、現在フィリピンでも所得が極めて低い世帯が暮らす地域で調査、創作をしている。その人々にとってタコ焼きとは、どういうものなのだろうか。

「フィリピンの人にとって、タコ焼きとは外国から入ってきたエキゾチックなおやつであり、嗜好品です。ショッピングモールや娯楽街で販売されているもので、一定の所得がある人しか目にできません。スラムで暮らす人にとっては日常的な食べ物ではありません」

戦争と経済格差、この二つをきっかけに、タコ焼きによって「イメージの価値の交換」を考えた武田さんは、彼らにとっては非日常のおやつ、タコ焼きを食べる行為を通して交流を図ることに意味を見出している。それはとても危険な行為かもしれないが、フィリピン国内の階級闘争の外側にいる外国人だからこそ、かえって現地の人に受け入れられやすいということもある。フィリピン国内ではスラムに住む人たちへの怖れや偏見が存在しているが、お金はなくても、助け合って自治を図るスラムに、経済的なものとは別の豊かさがあるのではないかと武田さんは感じている。今回の作品は、その豊かさを探すものでもある。

「それは今という時代の新しい生き方のヒントにもなるかもしれません」

「アジア最大のスラム」との異名を持つトンド地区。

 

アートとは? アーティストとは? 

武田さんの話を聞いていると、フィリピンというのはそれほど遠い国でもないのに、知らないことが多いのだと気づく。例えばフィリピンで絶大な人気を誇る日本のカルチャー・コンテンツとは? なんとそれは1970年代後半に放映されたスーパーロボットアニメの『ボルテスV』。彼の地のカラオケには必ずこの主題歌が入っているそうだ。5人のメンバーが協力して悪を倒すストーリーで、そのあまりの人気に怖れをなした当時のマルコス大統領が放映禁止にしたほどだった。その後マルコス大統領は失脚し、このアニメは各地方が団結して勝利したフィリピンを体現するストーリーとして国民に愛された。こんな逸話を聞くとフィリピンの歴史にも俄然興味が湧いてくる。過去にスペイン、アメリカ、日本に占領された複雑な経緯もあり、そこから生まれるアートや社会現象には、我々が一見するだけではわからない深淵な背景があるのかもしれない。それをもっと知りたいと思う。

ナヴォタスに住む家族と。

 

Karnabalのディレクターであり、自らも演劇集団を主宰し、アーティストでもあるJKアニコチェは「アーティストは社会的な存在である」と言う。「フィリピンではアートと政治が近い」とも。2013年から始まったKarnabalのテーマは、一貫してパフォーマンスによるソーシャル・イノヴェーション。いかにコミュニティの中に入っていくかを重視し、紹介される作品も積極的に観客に働きかける参加型で、政治や社会問題、生命の倫理などを考えさせる秀逸な作品が多い。

武田さんの考え方もこの点においてJKと同様だ。「いろいろな表現があってしかるべき」と前置きした上で、彼にとってのアートとは「社会をどう映すか、向きを変えて見つめるなおすことができるか、観客とそれをどう共有するか」であると述べた。

「作品には捉えてもらいたい志向性はありますが、それが絶対に正しいとは限らない。押し付けるつもりはありません」

作品は啓蒙とは絶対に違うものだと思っている。ただ、たくさんの人に興味を持ってもらうために、作品のとっかかりとも言うべき間口を広く作る。例えば「タコ焼き」。ある意味キャッチーだ。ゆえに解釈の幅もそれだけ大きくなる。その中でどこまで作家の思考をしみ込ませるか、問題に踏み込んでいくのか、距離を取るのか、デザインするのが難しい。

「何年か経って、ああ、そうだったのか、とわかることもあるような作品が作れたらと思っています」

武田さん曰く、アーティストとは「提起する人」。問いかけた後、観客たちが自身で考えることができるプラットフォームをいかに作るかが大切なことなのだ。場を開く人とでも呼べばいいだろうか。その力量は、場所や観客によって毎回違う状況の中で問われる。

例えば、パフォーマンス中に感情的になる人がいたとする。

「そういうこともあるでしょう。表現するということは“暴力”ですから。 この作品も相当暴力的ですよ。70年以上も経って、戦争の記憶を引っぱり出して、取りようによっては戦死者の遺体をタコを介して食べろって言っているようなもので。それは僕の真意ではないけれど、こんな風に受け取られることもある」

表現者にはその暴力性を自覚すること、倫理的責任、想像力が必要だと戒めているという。それでも「感情的になった人たちの言葉に揺さぶられたり、傷つけられることはないのか?」と聞くと「僕はパフォーマーとしてその場に立っている。そのことでパフォーマンスが中止になることはない。これも作品に組み込まれるのです」と言った。彼のパフォーマンスには予定調和的帰結はない。

 

パフォーマー冥利に尽きる瞬間を求めて

昨年6月、上海でタコ焼きのパフォーマンスをした。上海の町でもタコ焼きは人気で、ここではタコが中に入っている。12人の円卓で、みなの表情を見ながら「戦争の話をしようと思うのです」と切り出した。タコ焼きは一斉に食べることにした。2、3人、食べなかった人もいた。

「タコ焼きを出された人は、それを食べても、食べなくてもいい。行為の意味を考えて欲しいのです。なぜ私は食べるのか、食べないのか。食べたなら、それはその後身体の中で何を作り出すのか、どう生きて活かすのか…考えるきっかけになればいいのです」

この作品のもうひとつの鍵は「食べる」ということ。食べ続けられているなら、すなわち食べることができる豊かさを手にしているのだということ。それが日常になると、我々は意識もせずに漫然と食べる行為を受け入れてはいないか?

「食は死の上に成り立つ更新」と武田さんは言う。食べることは“死”を食べることだと。タコにも、他のあらゆる食材にも物語がある。それを食べて、我々は命をながらえる。食べる意味をもういちど認識したい。

上海でのパフォーマンスは、実は困難だった。最初、参加者が自分の歴史認識と他の人のそれが同じなのだろうか、と探り合う雰囲気があった。武田さんの話の後で会場のみんなが突然黙りこんでしまうことも。それでも最後には自分の作意が伝わったと感じることができた。パフォーマーをやってきてよかったと思った。フィリピンでの発表のための課題も見えた。映像の構築をどうするべきか、対象との距離の取り方、パフォーマンスの詰めの部分など、考えることがあった。

そして新たな可能性も。武田さんはこの作品の発表をフィリピンと日本だけで終わらせたくないと考えている。アジアだけでなく、ドイツやアメリカでも行ってみたい。受けた教育や歴史の捉え方が違うことはわかっている。それでも国家などの枠から離れて、いかに個人としての思考を促し、話し合うことができるか。

「そのためにも汎用性を作品にどうもたせるか、も考えているところです」

武田さんは、これからもこの作品のような参加型のパフォーマンス・アートを続けていくつもりだ。役者の身体と観客が何を生み出せるか? いかにいろいろな人たちといろいろなやりとりができるか? 観客ひとりひとりの感覚を、思考を、いかに引き出せるのか? 閉ざされた空間で、意識的に、そして硬くならずにやっていけたらと考えている。

「年に一度くらい、ものすごい空間が生まれることがあるんですよね」と顔がほころぶ。

インタビュー中。ACYにて。

 

これからも、そんなパフォーマー冥利に尽きる瞬間を求めていく。

 

武田力(たけだりき)

1983年熊本県生まれ。大学時代から演劇に親しむ。卒業後に幼稚園勤務した後に俳優活動を本格化。2008年から岡田利規主宰のチェルフィッチュに参加。2012年より自作品制作を始める。フィリピンの国際演劇祭「Karnabal」から招聘され、2017年5月に開催されるフェスティバルで作品を発表するために日本とフィリピンにおいて鋭意製作中。