横浜の海が育てたアーティスト、野老朝雄

Posted : 2016.07.08
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「東京2020オリンピック・パラリンピック」の「東京2020大会エンブレム」に作品が選ばれた野老朝雄(ところあさお)さん。実は横浜でキャリアを積んだアーティストだ。今回、彼の創造の原点ともいえる場、BankART Studio NYKで彼の考えの一端を語ってもらった。

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横浜のクリエイターたちがかけつける

横浜のアートスペースBankART Studio NYKにおいて6月10日、「野老さんの受賞を祝う会」と題した会場に、300人を超える大勢のアーティストや建築家、デザイナー、その関係者などが集まっていた。運河沿いの外庭には野老さんとゆかりのある クリエイターグループなどが屋台を出し、バーベキュー(みかんぐみ)やおでん(ノガン)、つまみ(ライトハウス)、「TOKOLO柄タルトショコラ」(小泉アトリエ)など手のこんだフードが並び、わがことのように喜びあっていた。

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設計事務所「みかんぐみ」の曽我部昌史さんが乾杯を呼びかけると、大きな歓声があがった。野老さんは懐かしい顔から次々に声をかけられ、賑やかに再会を楽しんでいた。

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Photo by OONO Ryusuke

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Photo by OONO Ryusuke

横浜で活動していたころ

この BankART Studio NYK は、2006年5月から2008年8月までスタジオを借りて制作をしていた野老さんにとっては懐かしい場所だ。横浜で活動していたのはどんな時期だったのだろうか。

そもそも最初の横浜とのかかわりは、2000年、31歳の頃だった。ドイツ人の写真家で日本に滞在していたハイナー・シリングさんの展覧会のアシスタントをすることになり、展示設営の手伝いや通訳として横浜美術館に通っていたのだ。その姿に目を留めた横浜美術館「子どものアトリエ」のチーフであった三ツ山一志さんが声をかけた。

「兄ちゃんもものをつくってるのかい、と。そして作品を見てもらい、『子どものアトリエ』でワークショップをする機会をいただきました。そしてそれがアートギャラリーで個展を開く話に発展したんです。まだアーティストとして模索中のころで、三ツ山さんにはよく怒られたなぁ。結局、光を使った作品となりショー形式での展示になりました。この時はまだグラフィック的なパターンには興味を持っていなかったはずですが、今、見直すとすでにもうこの時から関心があったように思います。あの時、三ツ山さんに背中を押してもらわなければ、2001年の初めての個展というアーティストとしての第一歩を踏み出すことはできなかったわけですから、恩人です。お会いできたら嬉しいですが、また怒られるかもしれないと思うとちょっと怖いですね。」 

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2001年「Light Light」展(横浜美術館アートギャラリー)

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三ツ山さんはこの日の会に出席、野老さんと久々の再会を果たした。三ツ山さん(現在は横浜市民ギャラリーの主席エデュケーター)は
「あの頃の野老くんは気負っていましたね。こういうことをやりたいというアイデアを相談されて、確かに何度かダメ出しをしました。今でも節目には連絡をしてきてくれますよ」
と目を細める。

アーティストとしての第一歩を踏み出したのは横浜の地であり、その恩人は大きく巣立っていった彼の活躍をあたたかく見守っている。

“つながる”パターンの模索

初の個展を終えて数カ月後、野老さんにアーティストとしての転機が訪れる。現在の作品のテーマにつながるパターンの模索が始まるのだ。そのきっかけは2001年9月11日に起きたアメリカの同時テロの惨禍だった。

「国家対国家や宗教対宗教を超えた断絶を目にして、自分に何ができるだろうかと考えたときに、絶望しているばかりではなく何か“つながる”可能性を求めてみたいと思ったんです。」

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Photo by OONO Ryusuke

 

この日から毎日、“つながる” パターンとも紋様とも言えるような図形を、紙に鉛筆で描き、またコンピューターで作図をし続けた。一日数種類、自己鍛錬として毎日作り出すことを自らに課し、1000種類になるまで作り続けたのだと言う。 “つながる”パターンは、今回の「東京2020大会エンブレム」でも実現されている、その後の野老さんの創作活動の核となっているコンセプトだ。

「“つながる”という言葉での表現は後から思い至ったものであって、この時は言葉も忘れてただ黙々と作っていました。1000種類という数を前にして、“つながる”ことの重要さに気づいたのです。ただ、これがライフワークとなってずっと追求することになるとも予測していませんでした。」

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2005年「愛・地球博(愛知万博)トヨタグループパビリオン」(設計:みかんぐみ)VIデ ザイン

アーティストとしてひとつのテーマを見つけた野老さんは、クリエイターやアーティストが50組以上も入居していた北仲BRICK & 北仲WHITE」にも足しげく通いだした。これは2005年5月~2006年10月の期間限定で築約80年の2棟の建物(旧帝蚕事務所と旧帝蚕ビルディング)を活用した森ビルによるプロジェクトだ。
2005年には「愛・地球博(愛知万博)トヨタグループパビリオン」の映像制作を設計事務所「みかんぐみ」とともに担当することになる。

「『みかんぐみ』さんや『小泉アトリエ』など錚々たる事務所が居を構えていた北仲WHITEはかっこいい場所でしたね。他の場所にはない独特の活気があふれていました。大きな刺激を受けました
と野老さんは思い出す。

写真提供:BankART1929

北仲BRICK&WHITE、写真:鈴木理策、提供:BankART1929

  

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2006年 「みかんぐみ」CI・ロゴデザイン

「みかんぐみ」のメンバーのひとり、曽我部昌史さんは、
「北仲WHITEに出入りしていた野老さんに、私達が設計したパビリオンに流す映像を依頼したのが横浜での仕事上のおつきあいの始まりでしたね。蝶の舞う映像を作ってくれました。その後、事務所のロゴ制作もお願いしたんですから深い縁がありますね。彼は最小限の素材から無限大の価値を生み出すアーティストです。これからもあの頃のようにわいわいと楽しんでモノづくりを一緒にしていきたいですね」
と嬉しそうに語った。

横浜でのものづくり

2006年5月から2008年8月まで、BankART Studio NYKが野老さんの創作の場となった。BankARTのアーティスト・イン・レジデンス活動の対象アーティストに選ばれて、スタジオ区画を貸与され、滞在制作を行なったのだ。横浜でものをつくりだしてきたことはどんな体験だったのだろう。

「当時の東京の自宅は狭くて紙を広げることもままならなかったので、制作ができる場所を貸していただけたことは大変にありがたかったですね。あらかじめ期間が限られた滞在でしたから集中して取り組めましたし。東京から横浜に通うことでスイッチが切り替わる。ここの海に面している環境には救われました。横浜だからこそ足が向かう、この海のそばでつくることの楽しみがあるからこそ。これは東京ではできないことでした。それに、よくお酒をアーティスト仲間で飲みました。朝になってしまって東京に帰れなくなったこともしばしば。海を眺めて、船の汽笛を聞きながら、仲間とお酒を飲んで過ごすということが、ものすごく必要なことでした。」

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2006年 BankART Studio NYKでのオープンスタジオ

 

BankART Studio NYKを運営するBankART1929代表の池田修さんは当時をこう振り返る。
BankART Studio NYKの活動開始期に共に過ごしたのはしあわせなことでした。シメイビールが好きでよく飲んでましたね。野老さんの作風は一見のどかそうに見えますが、実は建築を学んだ人らしい緻密な仕事からできています。この振幅が作品の豊かさになっています。」

野老正昭さん(父)と(2006年)

野老正昭さん(父)と(2006年)

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BankARTでのスタジオ滞在を終了後に2008年9月から野老さんが過ごしたのは、本町ビル45「シゴカイ」。デザイナー、アーティスト、建築家らが入居していた建物で、アーツコミッション・ヨコハマ(クリエイター、アーティストを横浜に誘致するための助成制度)の助成を受けて活動を続けた。

本町ビル45のスタジオで(2007年)

 

当時「シゴカイ」で隣のスタジオだった映像作家の白井美穂さんは、隣人の様子をこう綴っている。
「野老さんの頭の中はどうなっているのだろうかと思う。…スタジオに行けば、直線や曲線でできたオブ・アート風手書きの平面作品が掛けられ、無限に続いていきそうな紋様がマグネットや家具、衣服の上にも広がっている。…最近取り憑かれたように作っているという組み合わさった幾何学形態を手で引っ張ると3次元の異なる方向に伸び縮みする、驚くべき立体のパターンをたくさん見せてくれた。」(本町ビル45紹介冊子より)

本人の当時の言葉からも心境がうかがえる。
「繋げるという行為に強い関心を持ち、紋様をつくることを軸として制作活動を行なっています。…単純な形を操作することで核となるピース(断片)をつくり、繋ぎあわせることや増殖の法則を考慮した上で全体像を組み立てていく手法を用いており、…紋様を媒体に人やものごとを繋げていくことを望んでいます。…横浜での活動を通し、ここにしかない魅力・繋がりの可能性を強く感じています。」(同冊子より)

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2007年 グループ展「Exit to Safety」(TOKOLO.COM+A.A.Oとして出展)アクシスギャラリー(東京)

 

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2008年 「BankART Life2-Rooftop Paradice 」展に出展

死ぬまでアーティストを目指す。

「取り憑かれたように」作り続けた「つながる」あるいは「つなげる」紋様は、現在も野老さんの軸であり続けている。

「“つなげる”と言う方に意志があります。つながっていないところをどうにかつなげること、あるいは人から人へと行為をつなげる努力をすること。今の世の中、断絶だらけだと思うんです 。僕自身も他人を避けたりするような日だってあります。自分自身では実現できないことを、作品がそういう考えを伝えるものになってくれればいいなと願っています。それは、ライフワークと呼ぶしかないものです。」

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紋様は建築物のファサードなどのパターン制作にも応用。「FRP Ftownビル(仙台市宮城野区)」(設計:阿部仁史アトリエ)のためのファサードパターン©DAICI ANO

ライフワークを持つご自身のことを「アーティスト」と呼んでいるのだろうか?「アーティストというのは、自分で名乗るものではなく、ある条件をクリアしたらなれるものでもなく、常に目指し続けるものであると考えています。先ほど話した北仲BRICK&WHITEには、僕よりも歳はずっと若い画家の淺井裕介さんがいらっしゃいました。彼は自分にとって、既に歴史をもった大作家のようでした。自分よりもすごい人はたくさんいる。それでもアーティストを目指しています。」

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「みかんぐみ」とのコラボレーションで生まれた野老柄の「手ぬぐい/LUV (橙)」

快挙を成し遂げた野老さんだが、これからはどこへ向かうのだろうか。
「アーティスト、建築家、アーバニスト、デザイナー、どんな肩書きもいらないので、“あれをつくった人だよ”と言われて死にたいですね。例えばナスカの地上絵みたいな、美術というジャンル分けすら意味がないようなものをつくって人の記憶に残りたい。それをただひたすら目指しつづけます。今日の会の開催はすごく嬉しい、ありがたいことなんですが、こうして自分の作品を一覧に見ると、ここまでしかまだできていない、ということを自覚させられます。道はまだまだ遠いな、と焦りますね。」

きっと、野老さんは、今日も創作をしていることだろう。

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2016年 「個と群」野老朝雄×青森市所蔵作品展(国際芸術センター青森)

 
【野老朝雄 Asao Tokolo プロフィール】 

http://www.tokolo.com
幼少時より建築を学び、江頭慎に師事。2001年9月11日より「繋げる事」をテーマに紋様の制作を始め、美術、建築、デザインの境界領域で活動を続ける。単純な幾何学原理に基づいて定規やコンパスで再現可能な紋と紋様の制作や、同様の原理を応用した立体物の設計/制作も行なっている。

1969年   東京生まれ
1992年   東京造形大学卒業
1992-93 年 Architectural Association School of Architecture(AAスクール)在籍
1993-98年 江頭慎の制作助手、ワークショップアシスタント
2010-12 年 東京造形大学非常勤教員 
2010年-  桑沢デザイン研究所非常勤教員
2003年-16年武蔵野美術大学空間演出デザイン学科非常勤講師
2016年-  東京大学工学部非常勤講師
2016年-  東京造形大学客員教授