VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.26

Posted : 2014.03.28
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横浜美術館の天野学芸員が綴る、アートをめぐっての考察。「アートとは?」と問い続ける連載です。

第26回:光を希求したある画家について

筆者が1982年から87年の間、北海道立近代美術館で奉職していた頃に、知り合うことになった札幌在住の杉山留美子という画家がいた。「いた」と過去形で書いたのは、2013年6月4日に数ヶ月の闘病の末、この世を去ったからだ。享年71歳。多くの仲間や、関係者によって偲ぶ会が開催されたが、残念ながらそれには出席出来なかった。

今年に入って、杉山さんの個展を開催するので原稿を書いてくれないか、という依頼を受けた。以前にも、1997年に札幌での個展に文章を寄せたこともあるし、追悼の意味でも書きたかったので受諾することにした。 そのうち、杉山さんを偲ぶ冊子が送られてきた。そこには、関係者の追悼文や、本人の作品を巡る言葉とともに、亡くなる前の近作の図版も掲載されていた。杉山さんの作品を網羅的に見ていた訳ではないが、少なくとも1997年の個展で出品された作品は知っていたので、その変貌ぶりに正直驚いた。作品がとても良かったのだ。追悼の意味でも文章を書きたいという気持ちは、どうしてもそれらの作品を見た上で書き上げたいという強い思いに変わった。

そして、念願叶って、今年(2014年)の1月26日に、杉山留美子の作品のほぼ全容を駆け足ながら観ることが出来た。特に、望んでいたとは言え、筆者が1997年での杉山の個展(註1)に文章を寄せて以来、観る機会を逸していた亡くなるまでの未完の作品まで把握出来たのが最大の収穫だった。というのも、2011年に制作され、同年に発表された作品「HERE NOW あるいは難思光」(註2)が、やはりそれまでの作品とはある意味で全く異なる作風を示していたからだ。 そして概ねこうした内容の文章を寄せることにした。

杉山は、1961年に「北海道美術協会展」が最初の公的な作品発表であるとすると50余年の活動歴の画家になる。ここでは、その全容を示すための紙面も、力量もないが、最晩年の作品を巡りながら、出来うる限り過去の作品との関係の中で、掘り下げながら位置づけられればと思う。

さて、2011年に発表された「HERE NOW あるいは難思光」からは形象が姿を消した。今となっては、比較の問題として語らざるを得ないのだが、この仕事の継続を望んだ杉山はさらに、その形象の消去作業を進めたかもしれない。それに加えて、色すらも加色ではなくむしろミニマル化させようとしている。それらの作業を画面全体の筆致がバーティカルな力動で果たされていることも特筆すべき点だろう。

「HERE・NOW あるいは難思光」2011年、アクリル・帆布

「HERE・NOW あるいは難思光」2011年、アクリル・帆布

 

この作品が、過去の作品とどのような点で異なるのかを確認するために、これまでの作品を俯瞰すると、杉山は、絵画を、自らの混沌とした想いを思考として表出するための手段として捉え、その形にならないものを幾つかの異なる形=形象として表現し続けてきたことが分かる。このことを端的に示す自身の言葉が残っている。

「環周」1976年、アクリル・カンバス

「環周」1976年、アクリル・カンバス

「あるとき、エッと思ったのは、私が、ああでもない、こうでもないと円や四角で描いていた図像が、仏画にあるマンダラとじつによく似た構造をもっていることに気がついたことでした。」
あるいは
「思考する道具として、色と形を媒体に、作品というものができ上がってきたというのが、私自身が絵を描いてきた理由なのです。」(註3)
杉山は、考えるという行為を絵画を通じて行おうとしていたことがこうした言葉によく表れている。しばしば海外に出かけ、その度に吐露される西洋的なものへの違和感や日本以外の地で身を置いたものが経験する日本への眼差し、というよりも自らのアイデンティティへの「客観的」眼差しは、杉山でなくともその例に枚挙に遑がない。
例えばこういうような言葉。
「突然外国で鉄斎の絵を見たときに、私の中にある感覚、思考というのは、こっちの方が近いんだ、日本の伝統的な世界の読み取りの方法の方が、私にとってはものすごく懐かしいし、心が安らぐだと思ったんですね。これは新鮮な発見でした。」
書画一体を旨とする鉄斎に目が向いたのは意外だが、この「発見」は、杉山にその作品タイトルに仏語(漢語)—妙光、無碍光、難思光—を使用させる契機になったのかもしれない。それはさておき、こうした杉山の心情の吐露と同時に、図像を求める姿勢は、まるでロック・クライミングで適切なホールドを見いだそうとしている行為のようにも見える。ただ岩壁をよじ登ることが好きだったというよりは、ホールドの発見に力点が置かれていたと言っても良い。行き着く先はまだ見えない。

「HERE・NOW 無碍光」2007年、アクリル・帆布

「HERE・NOW 無碍光」2007年、アクリル・帆布

杉山が作品のタイトルに「Here・Now」という言葉を使いはじめたのは、2003年の「Here・Nowあるいは妙光」が初出と思われる。敢えて訳せば「ここ、いま」ということになる。このタームが想起させるのは、杉山自身の存在についてということは言うまでもないが、同時に、その内的なあるいは外的な何ものかの「現前化」に他ならない。そして、この現前化は、杉山が追い求めた「光」がその起点になっている。それなしにはすべてが可視化されない「光」は、杉山にとっても一義的な現実であった。とは言え、モダニズムの絵画論を持ち出すまでもなく、絵画という不透明性のメディアにこの言葉はいかにも馴染まない。それを承知でこの言葉を使用したことにどのような意味が見いだせるだろう。

結語を先に述べれば、それは、絵画から不透明性を削り取りたかったというしかない。それは、写真のようなメディアの透明性とは異なるベクトルとして理解すべきものであり、杉山が終世取り組んだと思われる「光」を形象化するために介在するすべての要素を出来うる限り消去していこうとする姿勢だ。

「MIMO」1997年、アクリル・帆布

「MIMO」1997年、アクリル・帆布

すでに作家自身が不在の今、直接確認する手だてはないが、杉山作品は、「HERE NOW あるいは難思光」によってようやく一つの到達点に立った。その到達点までの道のりは、絵画の透明性と不透明性の間を彷徨ったものだった。その先に杉山が見いだしたのは、絵画の起源として影と痕跡と鏡像を挙げた美術史家岡田温司(註4)の言葉を借りれば、その二項対立のオルタナティヴな概念である「半透明性」なのかもしれない。しかし、それはあくまでも「かもしれない」以上の言葉を見いだせない。杉山は、2011年に「HERE NOW あるいは難思光」を発表した画廊主に、2年後の予約を入れ、このシリーズの継続に並々ならぬ決意を示したという。死によってピリオドが打たれた以上、それが一体どういう作風を示したのか知ることは出来ない。痛恨というしかない。

「杉山留美子展 光の絵画」(2014.2.15-3.6 茶廊法邑、品品法邑(札幌))会場風景 (撮影/露口啓二)

「杉山留美子展 光の絵画」(2014.2.15-3.6 茶廊法邑、品品法邑(札幌))会場風景 (撮影/露口啓二)

さいごに
冒頭で述べたように、このテキストを書くために札幌に行き、今回の個展会場の茶廊法邑に隣接する品品法邑と杉山の自宅に所狭しと並べられた作品を観る機会を得た。とりわけ杉山の自宅—中でもアトリエーでの作品との対面は、主なき家という場であったこともあり、当然作品以外のまるで杉山が今までそこに座っていたかのような書斎等の日常の品々が嫌が応にも目に飛び込んできた。ここにある日常の品々は、言わば「生の感覚を鈍らせる『強力な弱音器』である『習慣』というやつ」(サミュエル・ベケット)であり、杉山は、そんな中で、自分を鼓舞しながら解き放つことができる唯一の行為として絵画制作をし続けてきたのだろうということを強く実感させられた。」

学芸員という仕事柄、このように美術家の作品について書く機会は少なからずある。美術館での展覧会は、それなりの評価を得た美術家について書くわけだが、杉山さんのように決してその名が知れ渡っている訳ではない美術家のようなケースもある。当然なことだが、作品について書くということは、評価のあるなしという事より、作品にたいする思い込みの強さ次第で決まってくる。長い間見続けた美術家が、今回のように変化を繰り返した末に何を掴み、それを表現として表出させた場に居合わせたことは、それほど多く経験出来るものではなかった。杉山さんが、病気にならずその活動をこれからもずっと続けていたら、さらに作品は興味深いものとなったかもしれない。そう思いながらも、一方で、病気になり、自らの死を身近に感じたからこそ、ある境地に立てたとも言えるのではないかとも考える。本人がここにいない今、そういったことを考えても詮無いことは百も承知だが、表現者の一生とは誠に掴みづらい、しかしだからこそ、こちらとして丹念に見続けることの大切さを思い知った次第である。

註1)「杉山留美子展 光、赤く満ちる時」1997.5.1-28、INAXスペース、札幌、拙著「まだ見ぬものへのノスタルジア」
註2)本展「杉山留美子展 HERE・NOW あるいは難思光」は、同年7.2-10まで茶廊法邑(札幌)で開催された。
註3)杉山の言葉は、「杉山留美子さんを偲ぶ記念誌 宇宙の光 満ちるとき」2013.7.31、「杉山留美子さんを偲ぶ会」発起人会発行から引用した。
註4)「半透明性の美学」岡田温司、岩波書店、2010を参照した。無論、杉山の作品を断定的に「半透明性」の文脈に位置づけようと言う訳ではない。とは言え、杉山のみならず日本の近代以降の画家が、西洋合理主義の後ろ盾によって支えられた絵画のあり方との葛藤の中、見いだすべき方向の一つとして看過出来ない問題がここには潜んでいる。

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜美術館主席学芸員