around YOK vol.11『僕らは発達する』坪田義史さん

Posted : 2022.09.30
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創造都市・横浜を経由して様々なフィールドで活躍するアーティストやクリエイターたちが寄稿するシリーズ「around YOK」。第11回は、アーツコミッション・ヨコハマによるクリエイティブ・インクルージョン活動助成に2017年度・2018年度に参加した映画監督の坪田義史さん。発達障害と診断された坪田監督が、発達障害を抱えながら独居生活を送る叔父・まことさんの日常を捉えた、長編ドキュメンタリー作品『だってしょうがないじゃない』は、2019年10月に釜山国際映画祭 Wide Angle部門に出品するなど、国内外の映画祭への出品の他、国内の福祉の現場を中心に上映を重ね、様々な反響を呼んでいます。今回は、坪田監督が捉えている“世界”や、新型コロナウィルス感染症のパンデミックを経た“今”などを書き綴っていただきました。

映画監督・坪田義史さん(2019年 撮影:大野隆介)

 

「マジカルバナナ」

発達障害ADHDの思考回路「脳内多動」の症状を「マジカルバナナ」の連想ゲームに例えて分かり易く説明するTweetが軽くバズっていた。
「それは日常生活をしながら24時間「マジカルバナナ」をやらなきゃいけない呪いにかかってる感覚。一つの出来事や単語から連鎖的なイメージが一気に膨らむから、そこに脳のリソースを割いてしまう。不注意や能力低下も仕方ないよね」という発達障害当事者の方のTwetterの呟きに多くのフォロワーの共感を得ていて、ADHDの診断を受けている自分も「上手い事アレを例えたもんだね。あるある。」と大きく頷いた。

 

 


※マジカルバナナ
二人以上で遊ぶ事ができる連想ゲームの事で1990年代日本テレビ系で行われていたテレビ番組、「マジカル頭脳パワー!!」で行われていたゲーム
解答する者は「マジカル○○」から始め、「○○といったら××」(「バナナといったらすべる」「すべるといったらスキー」)といったように、○○から連想されたもの(××)を挙げながら、4拍子のリズムに乗って言い続ける。


試しに僕の場合のマジカルバナナを脳内で実況。

マジカルバナナ。「バナナ」と言ったら「ワニ園」を連想する。熱川バナナワニ園。温泉の熱を利用して熱帯に潜むワニの生態環境を伊豆の僻地で見事に再現。「イリエワニのアルビノ個体」とか「ブラジルカイマン」や「コビトワニ」などの希少種も揃っていて、水辺の生物愛好家の好奇心を十二分に満たしてくれる。でもそんなことはどうでも良くて「バナナ」と言ったらアンディウォーホールが手掛けたロックバンド『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』の1967年のファーストアルバムジャケットに使用されたシルクスクリーンで刷られたバナナ。がプリントされたTシャツを着て新宿の路地裏でシャッターを切る写真家、森山大道氏が撮影した日焼けして黒ずんだバナナの写真作品。あのハイコントラストなモノクロームとフィルムの粒状性に後ろ髪引かれてバナナの涙。。ああだこうだ。云々かんぬん。。

「頭のなかで考えが動きまくる」「興味関心が移ろいまくって今なにをすべきかを忘れる」この脳内多動の傾向は大なり小なり誰にでもある感覚だが、その傾向の偏りが度を越すと色んなミスや失敗を繰り返して精神的に落ち込むことになる。その影響で日常生活に支障をきたした場合、現代では「精神障害」や「発達障害」という「障害」の概念に急接近することになる。自分はてっきり健常者だと思い込んでいたものの医師の診断ひとつによって社会の枠組みから少しアウトサイドにはみ出したかのような疎外感を感じて、その途端に「障壁」が眼前に立ちはだかるような感覚。障壁と言っても無色透明な壁で意識上のバリア。そうバナナワニ園の温泉に半身が浸かったワニから見た分厚く透明な水槽の仕切り越しに見る世の中のような。「障害に対する偏見」は結局、自分の中にあったりして「なんだか恥ずかしい」と優劣をつけて劣等感を抱いたり。。

そもそも人間の情報処理の仕方は千差満別皆違う。当たり前だけれども絵画教室のテーブルの上に置かれたバナナの静物画を皆んなで一斉に描いたら誰一人として同じバナナの静物画にはならない。みんなちがってみんないい。これは詩人金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」の一節。この詩は、鈴と、小鳥と、私と、それぞれの特色の中に生きているすばらしさを歌いあげている。

私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。

この世にあるものは、誰一人、なに一つ、同じものはなく、だからこそみんなすばらしい、と金子みすゞは説いた。 違う言葉で言えば、丸ごと認めて、誰も傷つけないということだ。「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」この仏のような観点を忘れないようにしたい。

昔、映画の撮影現場でリリー・フランキーさんに「どんな女性が好みですか?」と聞いた事がある。これから重要な濡れ場シーンの撮影が控えたピリピリした現場の休憩時間、空気の読めない僕の「どんな女性が好みですか?」というボンクラな問いに、俳優・リリーさんは「みんなちがってみんないい」と人を垂らすような深みのある声で、タバコを燻らせそう答えてくれた。

 

「途中が好きだ」

僕は今、広告映像の仕事をしている。「脳内多動」の傾向はクライアントからの「お題」に対してブレスト段階における「脳内マジカルバナナ」的な連想は企画アイデアを膨らますのには役立っているが、時折その連想は脱線し、CMの訴求点から途方もなくズレていってしまうことがある。思いつきが執着に変わっていきイメージが暴走していく快楽。客観性なき妄執的なドライブ感を爽快に感じるが自己満足でしかない。論理がないから広告物としては芯を喰っていない。辻褄を合わせる編集作業、考えを纏めるのに時間がかかる。

しかし企画やアイデアを考えている「途中」が僕は好きだ。アイデアが閃く瞬間はとても気持ち良い。脳に電流が走る。そもそも人類は皆「途中」が好きな筈だ。人間の三大欲「食欲」に関しても食べてる途中、味を感じている食事の途中が好きだし「性欲」も「睡眠欲」もその行為の途中というか最中が良い。因みに散髪も、理髪店で髪を切ってもらってる途中が良いなと思う。理容師さんの技量と美意識が最高潮となる仕上げ段階に移行する一歩手前での寸止め。散髪半ばで「ここでやめてほしいです!」と訴えた事もある。

今、書いてるこの文章もまだ途中だ。纏める自信がない、纏めることを密かに拒んでいる節もある。「だって途中が好きだから」と言って途中のものを納品して仕事を終わらせるのはプロとして如何なものか?纏めて整理して正しいものに仕上げて行くとオリジナリティを失い作品としてつまらないものになってしまう懸念もある。書くこと自体を「先送り」にしていたため締め切り間際、今モーレツに慌てて書いている。持続可能な世の中は大事だけど持続可能な集中力が僕は今欲しい。

脳内の実況、思いつくまま纏まらないリアルを「生」でダラダラと徒然なく書き連ねてこそわかる世界もあるはずだ。「これでいいのだ」と開き直ってみたけれども、それにしても遅刻ばっかりの人生だ。常日頃、ADHDを隠れ蓑に遅刻の言い訳を脳内マジカルバナナ方式で考えている。高校生活は遅刻の多さで親が学校に呼び出されギリで卒業。美大受験も遅刻というか2浪しつつ受かったのは良かったけどもレポートの提出日を忘れ留年もした。金のかかる迷惑な子供。自分の結婚式に遅刻した時は周囲を驚かせ、我が子のめでたい入学式に寝坊してしまい、桜舞い散る校門の前、寝巻き姿で息を切らし汗だくになって落ち込んだ。いつも間に合わない。というか僕は人生そのものに遅刻しているのかも知れない。

息子の一茂を球場に置き忘れて自宅に一人帰宅した長嶋茂雄のエピソードはお茶目な失敗談として未だ語り継がれるけど、タバコの火の不始末で家が全焼したなんて洒落にならない不注意なニュースをみると自分はゾッとする。厄年を過ぎた頃、数年続いた精神疾患はだいぶ落ち着いてきた。というか飽きた。人間研究に疲れた。何年も飲み続けた精神安定剤と睡眠薬。化学物質の作用でまったりとした生活をしていても埒が明かないと思い断薬を決意し減薬していったがその結果、薬の副作用なのか、酒を好むせいなのか、とにかく異常に肥り体重が10キロ増え健康診断ではメタボリックと診断された。

気づいたらもうそろそろ50歳になる。みうらじゅんさんが以前から提唱する「老いるショック(70年代高度成長期に起きた原油不足:オイルショックのもじり)」が現実味を帯びてきた。老いるショックとは“退化”を“進化”に変える呪文だという。僕は妻子もいるしこの先の事を考えると悲観している場合ではない。ADHDタイプの人間は、遅咲きの花だと奮起したい。

僕は「発達障害は発達する」という考え方が好きだ。高度化する現代社会のスピードの中で、僕らはゆるやかに今もまだ発達の「途中」なのだと考えれば、広い視点でこの世界を、現象を見ることができるようなる気がする。「みんなちがってみんないい」と金子みすゞが詩を編んで「これでいいのだ」とバカボンのパパは言う。僕らは「発達」しているのだ。僕らにはまだ伸びしろがある。「もうどうしようもない」と悲観するのではなくて「しゃあない。しゃあない。だってしょうがないじゃない 」と次に向かってポジティブに加齢を受容し進化していく。足るを知り賢者モード。昔、映画化もした尊敬する漫画家、安倍慎一先生が仰る「迫真の美」を実感したい。

晩成に前衛の境地(ユーモアのあるおっさん)へと向かっていこうじゃないか!

 

坪田監督と叔父のまことさん

まことさん

 

「Neuro Diversity」

映画監督の自分が発達障害「ADHD/注意欠如多動性障害」及び「双極性障害」の診断を受けたのは2016年。日米合作で制作したインディペンデント映画の興行が振るわず精神に不調をきたして動悸が激しくなって不眠と過睡眠を繰り返した。家族に迷惑をかける故に、その旨を相談した所、親類に発達障害を持ちながら一人暮らしをする叔父さん(まことさん62歳) の存在を知り、僕は衝動的にカメラを持って会いに行った。 以降3年間、障害年金を受け独居生活を送る初老の叔父との交流を深めていく中、「親亡き後の障害者の自立の困難さ」や 「障害者自己決定や意思決定の尊重」「8050問題にともなう住居課題」などの問題に直面しながら映画「だってしょうがないじゃない 」を制作し20019年に公開した。

2005年に発達障害者支援法が施行され、社会的な認知を得た「発達障害」。特別支援学級の生徒数は、少子化にも関わらず、法が施行されてから10年間でおよそ2倍に増加したという。20年にも満たないこの未熟な概念はどのように発達するのか?発達障害は「生まれつきの脳機能の障害」の為、治らないと言われているがその対処法はあるのか?文明は発達し、医療が発達していく中で、人間社会の中で生まれた発達障害が増えているのは、産業革命以降の「均一化」の社会の終わりだろうか。

「均一化」に耐えられなくなった僕たちは、「多様性」という花を咲かせ始めた。映画「だってしょうがないじゃない 」は、映画館での公開後も福祉の現場で上映活動を続け、障害者施設で働く介助の方や多くの発達障害者の当事者の方との意見交換の場作りを現在も行っている。そこで話題になったニューロダイバーシティ(neuro-diversity)という概念は、「脳多様性」や「神経多様性」などと訳される言葉で、具体的には「脳や神経の在り方には、人それぞれに違いがあり、それらは人間の多様性の一つとして尊重されるべきである」とする考え方を指す。

僕は自分の発達の概念を捉え直したい。いまだに偏見もある従来の発達障害概念をずらしていくのがこの上映活動の目的だ。

 

 

「New Normal」2021年4月某日

「だってしょうがないじゃない ♫」とアッコにおまかせしている場合では無くなった。新型コロナウィルス感染症が蔓延し緊急事態宣言の延長をうけ、タバコと酒の量が増えてしまった。

コロナの渦中、要介護ステージ4の祖母(96歳)の自宅介護に追われた父親(70歳)が狭心症のカテーテル手術をし、無事退院後に今度は母親(72歳)が脳梗塞で倒れて緊急入院となった。末會有の事態と我が家の高齢化による緊急事態が2重の螺旋となり、その混乱した渦の中、なんとか正気を保とうとして控えるべきタバコの吸う量と気を紛らす飲酒(家呑み)の量がコロナ以前よりも逆に増えてしまった。今もタバコを咥えてこの文章を書いている。リハビリ入院となった母親とは院内感染防止の為、面会することも出来ずLINEのみが連絡手段となり、母親の病状がなかなか把握できず、後遺症の悪化等の不安を妄想してしまう。都内で気ままに暮らしていた妹(42歳)は、母不在の横浜の実家に生活ベースを移し、最寄りに暮らす僕(44歳)も週末は実家に泊まる生活に変わった。寝たきりの祖母のオムツを交換する。1週間分の溜まったオムツは消臭剤を振りかけ燃えるゴミの日の集積所に出した。

ソーシャルディスタンスが提唱される中、コロナ以前に遠ざかっていた家族の距離は密になり、時折テンパって口論するなどのやりきれない雰囲気が家庭内に立ち込める事もあるが、ぽっかりと空いた母不在の隙間を埋める家族間のなにげない日常会話を有り難く感じた。仕事がテレワーク主体になり、愛犬のマル子は散歩の機会が増えて生き生きしている。平均寿命が80歳を超え、世界一の長寿大国となった日本の現実。自分の両親のように自らの老後を親の延命に捧げた結果、身を滅ぼしてしまう人々が後を絶たないという。今は親が自分より長生きするかもしれないという不自然さ、自然界の摂理と医療が高度化された人間界の営みに不具合が生じているように思える。

今一度、今村昌平監督の「楢山節考」を見直したくなった。1983年公開のこの映画の当時のキャッチコピーは「親を捨てるか、子を捨てられるか」だ。かつて誰も経験したことのない超高齢化の時代。アフターコロナ、ポストコロナの世界は新しい時代に突入したとされ「コロナ後のニューノーマル」と説かれるようになった。

今後の日本のエンターテイメントにおける、より包括的な創造を考えたい。

「FUCKIN’ CORONAVIRUS」2021年9月某日

コロナ渦において我慢を強いられる場面が多くなり、その都度、不自由だなと感じる。非常に窮屈だ。ウイルスに感染してるかもしれない。ということを忘れる。ウィルスを運んでるのかもしれない。ということを忘れる。そんな恐怖が常にある。手洗いを、うがいを忘れる注意の欠陥。おっちょこちょいのおたんこなす。マスクをしてても顎に引っ掛けたままコンビニに入っていく、それに加えてズボンのチャックまで全開だ。その風通しの良い社会の窓から何が見える?

未だ取材撮影をさせて頂いている持続可能な親戚の叔父、まことさんと約束している毎年恒例のイベントも、大概はコロナで自粛した。正月の駅伝観戦街頭応援の中止から始まり、傾聴ボランティアさんとの誕生日会も、横浜スタジアムのプロ野球観戦、平塚の七夕祭り、カラオケ等の密になる事をなるべく避けた。一方、コロナ渦におけるオリンピック開催時は新規感染者数が都内史上最多となり5000人超を記録するなど皮肉にも比例して伸びていった。

先日は、職場の同僚がコロナに感染した為、濃厚接触者になったとして、まことさんと約束していた2020東京オリンピック・パラリンピックの野球、侍ジャパンTV中継観戦(感染ではない)も、自粛せざるおえない状況になった。その中止の旨をまことさんに電話で伝えたところ、まことさんは電話口、非常に残念な口調で「クソコロナ」と呟いた。ような気がして「え、いまなんて言いました?」ともう一度聞くと「・・・なんでもない」とまことさん。今年の夏も気候変動の影響で、クソ暑い。真夜中、犬の散歩の夜道で「ファッキンコロナ」と呟いてみた。

追記1:
僕はとうとうコロナに感染した。ゾンビになった気分だ。
まだ詳しく解明されてないウィルスに感染者した自分が家族と離れた隔離部屋に篭り、一人病床でパラスポーツをテレビ観戦するこのシチュエーションに、かつて観たSF映画のシュールな世界感を想起するけど、これは現実で、味覚と嗅覚を失い、これはただの風邪ではない事を知った。

追記2:
病が癒えた頃、祖母が自宅介護の末に旅立った。それからしばらくして、海の向こうでは戦争が始まった。(2022年3月現在)

文:坪田義史
写真:坪田氏提供

【プロフィール】

(2019年 撮影:大野隆介)

坪田義史(つぼた・よしふみ)

1975年、神奈川県出身。多摩美術大学映像演劇学部在学中に制作した『でかいメガネ』がイメージフォーラム・フェスティバル2000で大賞を受賞。2009年には、『美代子阿佐ヶ谷気分』(英題:MIYOKO)で、劇場デビュー。第39回ロッテルダム国際映画祭コンペティション部門「VPROタイガー・アワード」選出。イタリア・第46回ペサロ映画祭 審査員特別賞受賞。韓国・Cinema Digital Seoul映画祭、Blue Chameleon Award(批評家連盟賞)、Movie Collage Award(観客賞)をダブル受賞。ポルトガル・2011 FANTASPORTO映画祭 特別賞、最優秀脚色賞をダブル受賞。主演女優の町田マリーが、第31回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞受賞、第19回 日本映画プロフェッショナル大賞新人 奨励賞受賞。また、韓国・ソウルの映画館CGVにて「美代子阿佐ヶ谷気分」(英題「MIYOKO」)劇場公開する。2012年 文化庁在外芸術家派遣によりNYで一年間活動。2016年2月、リリー・フランキー主演映画『シェル・コレクター』(監督・脚本) 本作『だってしょうがないじゃない』は初の長編ドキュメンタリー作品となる。


IMFORMATION

『だってしょうがないじゃない』
公式HP https://www.datte-movie.com/