VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.16

Posted : 2012.02.25
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「横浜トリエンナーレ2011」キュレトリアル・チーム・ヘッドをつとめる、横浜美術館の天野学芸員が綴る、アートをめぐっての考察。「アートとは?」と問い続ける連載です。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年2年25日発行号に掲載したものです。

第16回:個人史が歴史になる時 沖縄の写真家、石川真生をめぐって

横尾忠則さん朝日賞受賞

2011年度の朝日賞を、先の横浜トリエンナーレの出品作家横尾忠則さんが受賞、1月27日に帝国ホテルで合同授賞式があった。各界の推薦をもとに、朝日新聞文化財団と朝日新聞社の選考委員会が審議、決定したものだ。受賞者のあいさつは僅か5分程とは言え、横尾さんも含め、いずれもユーモアもありかつ現在性に富んだ内容で充実していた。

朝日賞を受賞する横尾忠則氏

朝日賞を受賞する横尾忠則氏

 

記憶と忘却の境目:事実は30年で歴史化される

そんな中で、『日中国交正常化——田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』で大佛次郎論壇賞を受賞した服部龍二氏に向けた、審査委員の一人で近代法政思想史が専門の山室信一氏によるスピーチが示唆的で興味深かった。人文科学、とりわけ歴史学の学問領域におけるオーラル・ヒストリーの手法についての言及の中で、従来の文献資料の丹念な読み込みと分析の強化が今必要であることを説いた。また、デジタル化が進む中、紙媒体でのアーカイヴ化が、意図的に保古にされる傾向についても警鐘を鳴らした。無論、これは、東京電力福島第一原子力発電所の事故を巡る避難区域や除染の方針など重要な決定を行ってきた政府の「原子力災害対策本部」の議事録が作成されていなかったことが念頭にあることは言うまでもない。あるいは、主要政策の最高意思決定を行う会議である政府・民主三役会議の議事録の有無についての政府側の曖昧な答弁も記憶に新しい。都合の悪い事も含め、文書として残しアーカイヴ化することで、一定の時間を経て歴史的判断に委ねる、といった歴史化のプロセスを、政治的操作によって隠蔽することに対する批判がここでは展開された。また、事実が生じてから、およそ30年を経ると、当時の利害関係を超えて、事実が歴史化されることについても言及された。この時、30年という歳月について、漠然と幾つか想起してみた。つまり、70年代に起きたことが、ほぼ30年経った今、当事者の利害を超えて語られているかどうか。後でも触れるが、ベトナム戦争の歴史的評価(1960−1975年)、1971年の沖縄密約事件、通称西山事件は、確かに今テレビ番組化されている時代を迎えている事等々。これらは、膨大な歴史の一端にすぎないのだが、いずれも、このスパンが、記憶と忘却の境目を示しているようにも思える。

写真家・石川真生の個人史と沖縄の歴史

一方、これは、ささやかにも見える個人史においても同様のことが言えるだろう。授賞式出席後、翌日横浜美術館で行われる写真家・石川真生のトーク「沖縄ソウル—写真と私」を前にご本人と打ち合わせも兼ねて食事をすることになった。この時の会話が、まさに個人史とその歴史化との対面(場合によっては、対決)がトピックになったからだ。石川は、沖縄を拠点に、同時代の沖縄を人間中心に撮り続けており、横浜との関係で言えば、2004年に筆者が企画したグループ展「ノンセクト・ラディカル 現代の写真III」の出品作家でもあり、そして、横浜美術館2009年度の収蔵作家でもある。2011年の12月17日から本年3月18日まで行われている横浜美術館コレクション展にお披露目も兼ね、収蔵作品が展示されている。ところで、石川の最初期の代表作の一つに「熱き日々inキャンプハンセン」(撮影は1975年から77年、写真集の出版は1982年)がある。

「熱き日々inキャンプハンセン」1982年、あ〜まん出版、撮影:石川 真生、比嘉豊光

「熱き日々inキャンプハンセン」1982年、あ〜まん出版、撮影:石川 真生、比嘉豊光

この写真集成立には、少しばかりの説明が必要だろう。石川に、写真家になることを決意させたのが、1971年、沖縄返還協定批准阻止を訴え沖縄全土でゼネストの際に起こった、いわゆる松永事件だった。デモ隊の火炎瓶で機動隊員が死亡するというこの事件を眼の前で目撃した石川は、立場こそ違え、殺す、殺される、という事態を引き起こす返還運動そのものに深い懐疑を抱く、とともに、政治的な矛盾に満ちた沖縄そのものを撮影することを決意した。そして、沖縄を舞台に現実に繰り広げられる様々な事柄を「人間」の存在を軸に据え、撮影を続けてきた。
1975年から石川は、沖縄に駐留する黒人の米兵を最初の撮影対象にする。当時石川が決意した「沖縄を撮る」ということは、彼女にとって、すなわち アメリカ軍=米兵を撮るということを意味していた。とは言え、何のコネもない石川は、米兵が出入りする外国人バーで働くことにした。最初から黒人兵を撮る ことを目指したわけではなく、知人からの紹介で働き出したのが、たまたま黒人兵のバーだったのだ。そして、彼らの闊達な生活ぶりと、黒人同士の絆の深さに憧れも感じたという。後年、石川は、彼らが、拳をふり上げたり、仲間同士の独特のゼスチャーが、当時本国アメリカで主流となりつつあったマルコムXをはじめとするブラックパンサーの影響であったことを知るのだが。そもそも沖縄の人々にとって「敵」でもある米兵は、彼らもまた国家権力によって巻き込まれた(この場合、ベトナム戦争派兵)当事者ではある。しかし、当時の石川は、そうした「政治的に正しい」行為や判断をしていたわけではなかった。ただ米兵、とりわけ黒人に対する偏見を持たずにストレートに彼らにアプローチしたのだ。その後の、保守、革新、右翼、左翼、といったイデオロギーは言うに及ばず、性差もまた超えて、個々の人間に偏見なくアクセスする石川の姿勢は、この時から現在に至るまで貫かれている。この意味で、写真集「熱き日々inキャンプハンセン」は、決してルポルタージュでもなければ、ジャーナリスティックなドキュメンタリー写真でもない。

2012年1月28日、横浜美術館アートギャラリー1で「フォト・ヨコハマ2012」〜写真のチカラ、あふれるヨコハマ〜パートナーイベント — 写真家・石川真生トーク「沖縄ソウル—写真と私」が開催された。

2012年1月28日、横浜美術館アートギャラリー1で「フォト・ヨコハマ2012」〜写真のチカラ、あふれるヨコハマ〜パートナーイベント — 写真家・石川真生トーク「沖縄ソウル—写真と私」が開催された。

さて、石川は、当時のコザ市(1974年4月1日隣村の美里村と合併し沖縄市となった)照屋区にあった黒人兵専用バーに、他の地元沖縄や日本の女性(ヤマトから来た)達と働き、恋愛もし、自身黒人兵と同棲生活をはじめた。無論、彼らの生活を撮影することは忘れずに。石川によれば、当時の日々は、「女達の明るさに、強さに、たくましさに、私の心は、大きく動かされました。誰にもゆずらない、女達の黒人への愛情を目の前にした時、気づいたら、いつのまにか私も、黒人を愛する女になっていました。」(1982年5月15日「熱き日々inキャンプハンセン」より引用)というものだった。
こうした生活が数年続き、黒人兵達は戦場に駆り出され、その後、本国に帰還し、やがて女達もこの地を去ることになる。一方で、石川と黒人達との関係は続き、彼らの故郷フィラデルフィアでの撮影は、「LIFE IN PHILLY」(1987)として結実する。

個人史が歴史化するとき

最初の写真集「熱き日々inキャンプハンセン」は、出版後、消息の途絶えた女達から、それぞれの新たな生活のこともあり、かつての赤裸々な生活を伝えたこの本の存在に異議申し立てを受け、公開を取り止めることとなった。また、1978年に結婚した夫からも、1982年にこの写真集を出版することに猛然とした反対を受けた。その反対を振り切り出版を決意した石川は、当時2歳の娘を連れて夫のもとを去る事になる。そうした時も石川の父親は、黙って娘真生の判断を尊重する人であったと石川は述べている。写真に興味を示したりすることもなかったが、しかし石川の進む道を阻むこともしなかった。
実は、この日の食事をしながらの打ち合わせで、石川は、昨年の暮れも押し詰まった12月31日に、娘から、長年放置されていた段ボール箱の整理を頼まれ、何十年も手つかずだったそれらの箱を開けたところ、そこに、もう無くなったと思っていた「熱き日々inキャンプハンセン」のために撮影したプリントがそのままの状態で保管されていたこと、さらに、写真集に寄稿した荒木経惟の生原稿まで発見したことを話しはじめた。寡黙な父親が、これらの写真を大事に保管していたのだ。めったに高揚しない石川が、はばかることなく涙を見せ、封印を解いてこれらのプリントを公開する決意を示した。筆者は、その時に、先の山室信一氏のスピーチが重なって、個人史が歴史化される瞬間を見たような気になったのだ。まさに30年を経て、コザの女達の快活な生活、黒人達の集ったバー、あるいは、彼らの躍動感溢れた生活等、さまざまな事実が詳らかにされようとしているのだ。
ついでながら、石川の友人でもある、当時の黒人兵と日本人女性の間に生を受けたが、彼らの子ではなく養女としてアメリカで育つことになった池原えり子(現在はカリフォルニア大学バークレー校博士課程に在籍し、自らBlack沖縄という造語を掲げて、沖縄史、とりわけ沖縄と黒人の歴史を研究)が、自身のルーツでもある照屋のこの地を歴史的に掘り下げようとしていた。しかも、状況俯瞰的立場ではなく当事者として。彼女もまた、同じ歳月を経て、この地にようやく辿り着いたのだ。石川が「熱き日々inキャンプハンセン」の撮影を終えた1977年から35年、池原エリ子が、14歳で米国人夫妻の養子としてカリフォルニア州へ移住してから34年、2人は全く異なる立場で、コザの黒人街と関わり、今一度冷静な眼でその事実に向き合おうとしている。

[追記]
横浜市民ギャラリーあざみ野は「写真とコンテンポラリーアートに特化した運営」の中で、「あざみ野フォト・アニュアル」という写真展を開催している。昨年度は赤瀬川原平さんの写真展、今年度は韓国の写真家Kwon Boo Mooの展覧会を行なってきた。来年度、石川真生展が、2013年2月2日から24日まで開催されることになった。筆者も企画の段階から参加する。これからまさにどういった内容で石川真生の写真を伝えていくか検討がはじまる。

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜美術館主席学芸員。横浜トリエンナーレ組織委員会事務局
キュレトリアル・チーム・ヘッド。

 

 

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年2月25日発行号に掲載したものです。