VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.1

Posted : 2009.08.25
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このコーナーでは、2011年の横浜トリエンナーレ開催に向けた国内外の情報が連載の中心になるが、しばらくは、日本国内の興味深いアートを巡るイベント等について触れていこうと思う。それでは、まずは、今年行なわれたフランス月間から。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2009年8月25日発行号 に掲載したものです。

フランス月間 ― リヨン・ビエンナーレを取材

via_photo01毎年6月に行われるフランス月間の今年のトピックは、横浜・リヨン姉妹都市提携50周年記念を祝うというものだった。市内様々な施設で、関連の催しものが開催される中、横浜美術館では、リヨン市が行っているリヨン青年大使というプログラムの入選者である横浜出身のリヨン大学留学生岩下曜子さんのレクチャーを期間中に開催し加えて、リヨン市を様々な角度から紹介する企画を行うことになった。岩下さんの提案したテーマは、横浜とリヨンの絹の道を歴史的に辿るというもので、同時期には、19世紀のフランス絵画の展覧会を展示室で開催していることもあり、フランス関連の事業としても相応しいものとなった。実際に、5月にリヨンに出向き、横浜美術館のカフェに設ける「リヨン・コーナー」の素材集めを行った。実は、ここでのもう一つの目的は、今年が開催年に当たるリヨン・ビエンナーレを取材し、2011年に第4回の横浜トリエンナーレの開催準備に活かそうというものだ。というのも、リヨン・ビエンナーレでは、リヨン現代美術館が、その開催の中心的役割を果たしており、次回横浜トリエンナーレでは、横浜美術館が、開催の中心的役割を期待されているからだ。リヨンでは、毎回アーティスティック・ディレクターをリヨン現代美術館館長が兼務し、ゲスト・キュレーターを選定して美術館を中心にリヨン市内の様々な施設を使ってビエンナーレを開催している。リヨン・ビエンナーレについては、後でまた触れることにして、まずは、横浜とリヨンの関係について少し見てみたい。

 

横浜とリヨン ― 絹が結ぶ絆

via_photo02横浜市とリヨン市が姉妹都市としてこの50年間に様々な交流が行なわれてきた訳だが、姉妹都市の関係を結ぶべき背景については、実際にリヨンを訪れてみて初めて実感できたのが正直なところだった。パリ、シャルル・ド・ゴール国際空港から直通のTGVでリヨン、パールデュー駅まで一時間半ほど。海外からシャルル・ド・ゴール国際空港を経由して、リヨンまで直行出来ることを見ても、パリ経由とは別のフランスの主要都市へのインフラが整備されていることに気づく。そして、リヨンがパリに次ぐフランス第二の都市であることが、横浜が、東京に次ぐ第二の都市であることをすぐに想起させる。それから、歴史的な背景は異にするものの、リヨンが、フランスへの新しい文化、文明の窓口であった点も、ヨーロッパから近代の産物を移入した窓口としての開港期の横浜と性格を一にする。

ただし、リヨンの歴史は、ローマ時代にまで遡る。リヨンのなかでも一番古い地区は、世界遺産にも指定された旧市街(ヴィュリヨンvieux Lyon)で、ソーヌ川の西に広がる丘には2000年前のローマ遺跡が残っている。とは言え、現在のリヨンが、イタリアからの文化、文明によって本格的な都市の形成がはじまるのは中世のことだ。1533年、イタリア、フィレンツェの大富豪メディチ家から、カトリーヌ・ド・メディチがフランス王アンリ2世に嫁いだことは周知のことだが、実は、それよりも前の1464?66年に、メディチ家は、銀行の支店をリヨンに移転している。爾来、リヨンは銀行の街、商都としての位置を確立することになる。当時、つまりルネサンス期のフランスは、イタリアから見れば片田舎にすぎなかった。洗練された文化は、イタリアからフランスに持ち込まれ、その拠点がまさにリヨンであったわけである。

そして、19世紀になって横浜とリヨンを結ぶ大きな絆であった絹もまた、15世紀後半、イタリアからリヨンにもたらされた。1536年にフランソワ1世がイタリアからの絹の輸入に対抗するために、織機の設置をリヨンに許可し、同地における絹産業は飛躍的に発展する。17世紀に入ると、ルイ14世は絹産業の王立工場をリヨンに建設し、名実共に、フランスにおける絹織物の中心地となった。また、1804年には紡績機が発明され、手工業から機械化へと、絹産業は発展を遂げて行く。発明者ジョセフ・マリー・ジャカールの名をとり、ジャカール機と呼ばれる。そして、リヨンで製造された絹織物はヴェルサイユ宮殿へと献上されている。

横浜が、絹をめぐるリヨンとの関係において、俄然注目される契機になったのは、1854年から1856年にかけて、イタリアとフランスを中心に蚕の微粒子病が蔓延、フランスの絹産業は危機的なダメージを受け、新たな生糸の供給地を求める必要性に迫られることにある。この辺りの話は、詳細は、歴史の教科書に譲るとして、現代の絹産業そのものは、ご多分に漏れず、リヨンですらやや斜陽産業になりつつある。世界的な経済危機も追い打ちをかけ、リヨン滞在中に織物の工場が閉鎖を余儀なくされたニュースも飛び込んできたくらいだ。それでも、エルメスのスカーフの製造を一手に引き受けている工場の見学では、400年にわたって引き継がれてきた絹産業を支える職人たちの仕事ぶりを垣間みることができた。

興味深かったのは、馬具工房として出発したエルメスの創始者ティエリ・エルメスが、現在のドイツ西部のクレーフェルトの出身であったことだ。因みに、クレーフェルトは、ドイツ現代美術の代表的な作家ヨゼフ・ボイスも生み出した地である。クレーフェルトもまた絹織物産業の地として名を馳せたのだが、その職人たちが、ネーデルランドでプロテスタントとしての迫害を受け、クレーフェルトに移り住み、やがてリヨンにも流れ込んだこと、さらに、この地も安住の地とならずやがてイギリスに移民として流浪を余儀なくされたことだ。ヨーロッパのこうしたダイナミズムが、フランスのみならず、それぞれの国の歴史の背景に横たわっていることを思い知らされた、というわけだ。

 

リヨン・ビエンナーレ ― 国際展として認知度を上げてきた歴史

翻って、リヨン・ビエンナーレという現代美術の国際展をまさに国際展としてその性格を高めて行った歴史を知ると、こうしたヨーロッパの流動性の中で、いかにその認知度を上げてきたかがわかるだろう。今でこそ、国際的という形容詞が相応しいリヨン・ビエンナーレも、当初の1991年の第1回は、フランスの現代美術が中心であった。実際に国際展の名に相応しい内容になったのは、スイス人のハロルド・ゼーマン(1933-2005)がキュレーターを務めた97年の第4回からであった。清濁合わせ飲む老獪キュレーターを選んだこと自体、今後の国際的な内容をより充実させていく強いメッセージともなった。以来、ハンス・オブリヒト、ジェローム・サンス、ホウ・ハンルー等国際的に影響力のあるキュレーターがゲストとして招聘されている。とりわけ、近年は、リヨン市内の様々な拠点を結んだ地域との連携事業に重点を置いている。

 (続く)次回は、最近の美術の話や内外のトリエンナーレ、ビエンナーレの最新の話題にも触れつつ…。

 

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール

天野太郎[あまの たろう]
横浜美術館主席学芸員。「横浜トリエンナーレ組織委員会事務局
キュレトリアル・チーム・ヘッド。

 

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2009年8月25日発行号に掲載したものです。