VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.31

Posted : 2015.07.08
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横浜市民ギャラリーあざみ野の天野主席学芸員が綴る、アートをめぐっての考察。「アートとは?」と問い続ける連載です。
台湾の文化行政を垣間見る――2014年の法人化以降

6月1日から6日まで台湾政府の招聘で、台北、台中、台南、高雄の主な文化施設を訪問することになった。招聘の主な目的は、東京の虎ノ門に新たにオープンする台北駐日経済文化代表処台湾文化センターのこけら落としで開催される文化催事台湾ウイークの記者発表(台北にある国立台湾博物館で)に日本のメディア関係者として出席することだった。私以外は、新聞社の記者が参加。記者発表出席に加え、台湾文化省から派遣されたオフィサーの案内で、台湾の主要都市の文化施設を視察することももう一つの目的だった。

6月2日に行われた国立台湾博物館での記者発表。

6月2日に行われた国立台湾博物館での記者発表。

 

今まで、何度か台湾には足を運んだが、もっぱら美術関係の仕事だったので、観光はもとより、美術以外の文化施設など一度も行ったことがなかった。それだけに、新鮮な驚きが多かった。台北では、演劇と音楽の施設である國家戲劇院、國家音樂廳を併せ持つ国立中正文化中心もその一つ。この巨大な建物の前を何度も車で通ったが、そんな施設とは露知らずで、附属施設として表演藝術圖書館もあり、レコードやCDのアーカイヴが収蔵されていた。今、この手の巨大な劇場や新たな美術館が、台中、台南にもデビューしようとしていた。伊東豊雄が手がけた臺中國家歌劇院(台中国家歌劇院)、台南市の坂茂による臺南市立美術館(Tainan Museum of Fine Art)など。ところで、ここでは、台湾国内の施設名を現地の漢字で表記したが、これは繁体字、全く同じとは言えないにしても、日本の旧字体に当たる。日本人観光客にとって、ハングルでお手上げの韓国、同じ漢字圏の本家である中国の簡体字は、あまりに略されこれもほぼお手上げなのに対して、台湾では、旧字体とは言え、まだ日本人にも馴染みのある漢字が使われている。御蔭で、街を歩いていても看板を見れば大凡の見当がつくことが出来た。これは、日本の文化施設のホームページの多言語化の中で、きちんとフォローされていない場合が多い。筆者の前任地である横浜美術館も、中国語は簡体字のみの表記となっており、これでは、繁体字圏の台湾をはじめ、香港、マカオ、そして何よりも北米の華僑には通じない。大きなマーケットがカバー出来ていないことになる。

臺中國家歌劇院(台中国家歌劇院)、オープンは未定。

臺中國家歌劇院(台中国家歌劇院)、オープンは未定。

 

さて、私も含め参加者のジャーナリストにとっても台北で印象的だった施設の一つが、国家人権博物館だった。とは言うものの、恥ずかしながら、今までその存在すら知らなかった。普段知っている台北の中心街から少し離れた場所に、この博物館はあった。それもその筈で、元は刑務所が建物の前身だった。まず、訪問当初から異例(同博物館にとっては通常の対応なのだろう)で、施設の担当者に混じって、人権を侵害された高齢の男性の当事者3人が参加し、彼らの証言を中心に施設の案内が始まった。すでに述べたが、何ら予備知識もなく訪問したので、案内が進むにつれてようやく何の当事者かが少しずつ詳らかになっていくという有様だった。1989年に公開されヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞した台湾映画「悲情城市」は日本でも公開され、筆者も観たが、当時の政治的、社会的背景に十分な理解が及んでなかったことも思い知らされた。まずは、この言葉、「白色テロ」。白色テロそのものは、台湾におけるテロだけを指すものでないことは知られているが、この地の国家権力によるこうした弾圧がこれほど凄まじいものであったことは知らなかった。この博物館を案内してくれた高齢の人々は、すべてこのテロの犠牲者であり、生き証人ということになる。掻い摘んで言えば、第二次大戦終了時に、敗戦国であり、植民地の宗主国であった日本の武装解除等の戦後処理を連合軍から委託された蒋介石=中国国民党が、1949年から1987年の長きに渡って施行した戒厳令下に起こった言論弾圧の悲劇(約3万人弱の人々が処刑、殺害された)であった。

国家人権博物館での、冤罪で長期拘留された人々による解説。

国家人権博物館での、冤罪で長期拘留された人々による解説。

 

ここで詳細を書く余裕はないが、日本でもよく耳にした本省人と内省人の対立構造の一端が理解出来たような気がした。少なくとも、同博物館を訪問する入館者に当時の惨劇を証言するこうした歴史の証人にとって、蒋介石=国民党は、認めることのできない存在であることが理解出来たのだが、それにしても、歴史的建造物(この場合刑務所)を残し、歴史的事実について隠蔽するのではなく、むしろ正面から見据え、積極的に公開しようとする姿勢にも感心せざるを得なかった。歴史を残していこうとする姿勢は、植民地時代の建物が今も現役で活用されていることを知るに及んで益々その印象を強くした。先述した記者発表のあった国立台湾博物館(1908年に台湾総督府博物館として開館)、台南にある国立台湾文学館(1916年に台南州庁として開館)、同じく1932年に日本人林方一によって開設され林百貨店(現在も百貨店として活用されている)と枚挙にいとまがないほどだ。

さて、今回、主に国立系の文化施設の訪問で分かったことは、台湾では2014年からこうした国立の文化施設の法人化がスタートしたということだった。日本で言えば、独立行政法人がそれに該当するが、日本ではすでに2001年にスタートを切っていることを思えば少々対応の遅さを感じない訳にはいかない。台湾の人口は現在2400万人弱、台湾ではとりわけ少子化が社会問題となっている。向後、国も含め税収が減じるのは日本同様であり、新たなマネージメントが要請されていることは現場の担当者との意見交換でも伺えた。同時に、横浜市同様、創造都市の施策がとりわけ高尾、台南の港湾エリアで具体的な事業が展開していたのは興味深かった。高雄の「駁二芸術特区」はちょうど横浜の赤レンガ倉庫のエリアに似ており、商業空間とともにアーティストのレジデンス施設が機能していた。

日本の統治時代に建てられた砂糖の貯蔵に使われた倉庫をリノベーション。

日本の統治時代に建てられた砂糖の貯蔵に使われた倉庫をリノベーション。

レジデンス作家として滞在していた木村祟人氏と偶然出会う。

レジデンス作家として滞在していた木村祟人氏(左)と偶然出会う。

 

台湾におけるこうした主要都市の文化行政は、ともすれば台北に偏りがちだった傾向から分散し、それぞれが中心の役割を果たすべく機能しているように思えた。これから竣工が待たれる台南市立美術館(板茂)等、今後の台湾の美術行政は日本のパートナーとしても重要な存在となるだろう。最後に、これは特筆しても良い案件を。台中に本部があるアートバンク(藝術銀行)なる新たな台湾現代美術をある意味で支援する政府系の機関のことだ。若手アーティストの経済的な支援などを目的とするアートバンク事業の年間購入予算は4500万台湾元(約1億8千万円)、昨年までに延べ490人分、933点を収集している。これらの作品を公的機関や企業などにレンタルしようというもので、写真にあるよう作品を展示、プレゼンするスペースを設けている一方、収蔵庫も美術館標準の温湿度管理、加えてレンタルから戻った作品の保管のため修復家も常駐し、修復室も完備している。この制度は、カナダオーストラリアに先行例があるのだが、台湾では今後この制度を強化していくらしい。我々が見ても質の高い作品を選考しており、質を維持するための委員会やアドヴァイザリー委員会も設置されている。

アートバンク(藝術銀行)正面

アートバンク(藝術銀行)正面

アートバンク(藝術銀行)内の展示スペース。ここで、レンタル用の作品のプレゼンテーションが行われる。

アートバンク(藝術銀行)内の展示スペース。ここで、レンタル用の作品のプレゼンテーションが行われる。

 

実際にこのシステムを活用したデザイナーズ・ホテルに出向いたが、ホテル側も宿泊者にも好評を得ていた。アートマーケットの活性化にも繋がる斬新な試みだろう。
すでにこの連載でも指摘したが、美術をマーケット抜きにして語ることは出来なくなっている現在、こうした試みの功罪を見極めつつも、公的機関が今後どういった美術のプレゼンスのためのインフラを構築するかは、喫緊の課題となることを思い知らされた。

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜市民ギャラリーあざみ野
主席学芸員