横濱JAZZ PROMENADE

Posted : 2013.02.25
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横浜の街全体がステージとなる日本最大級のジャズ・フェスティバル「横濱JAZZ PROMENADE」。1993年に第1回を開催、昨年は記念すべき20回を実施しました。これまでの歴史とこれからの展望を実行委員会事務局長の鶴岡博さんに伺います。

(インタビュー・構成:猪上杉子)

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2013年2月25日発行号に掲載したものです。

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「ジャズの似合う街、横浜」の再構築

横浜の秋を彩る恒例のイベントとしてすっかりお馴染みとなった「横濱JAZZ PROMENADE」。横浜市民のみならず、全国から大勢のジャズ・ファンが訪れ、横浜の街がジャズの音であふれる二日間となる。20年という節目を経て、今年からは新たな歴史を刻むことになる。フェスティバルを主催・運営するのは「横濱JAZZ PROMENADE実行委員会」。事務局運営は主に「横浜JAZZ協会」と「横浜市芸術文化振興財団」が担い、企画の立ち上げ当初から「参加」をキーワードに市民ボランティアを募り、企業には協賛金や会場提供などの協力をあおいだ。

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(鶴岡さん) 「“オール横浜”が合い言葉でした。愛好家団体、行政、市民、企業、そしてミュージシャンが一丸となる形を最初から作れたからこそ、ここまで続けてこられたんでしょうね。今でこそ市民との“協働”型プロジェクトを行政が開催することは珍しいものではなくなっているけれど、20年前は画期的な方法でしたよ。」
第1回の開催に漕ぎ着けたのは1993 年のことだった。
「横浜は“JAZZの街”といわれていますが、東京オリンピックの頃を境にジャズ文化が廃れてしまって、私のようにジャズを生活の中で楽しんで来た者にとっては危機感を抱く状況が訪れました。

私の世代の横浜の若者達は、ナイトクラブで遊んだものでした。“ナイトアンドデイ”、“ブルースカイ”、“クリフサイド”、“ゼブラクラブ”といったナイトクラブに行くと、レイモンド・コンデだとか南里文雄率いるホット・ペッパーズ、秋吉敏子なんかが演奏していて、座って聞くだけではなく踊りまくったものでした。もともと横浜には戦後に(アメリカの)進駐軍が真っ先に入ってきたので、ジャズの土壌が作られていました。関内地区、山下公園、横浜公園、本牧、山手、港湾施設などには米軍施設が建てられて、ジャズをやるクラブもあちこちにあったんです。横浜にはジャズの街の伝統があって、ジャズによるエンターテイメント産業が発達していたのに、1952年にGHQが撤退し、1964年の東京オリンピック開催で、ジャズの伝統とジャズに関わる産業が東京に移行してしまいました。

この状況を憂慮して、評論家の平岡正明さんや、ラジオ関東(現RFラジオ日本)の高桑敏雄さんなどを説得して、30人の有志を集めて1991年に立ち上げたのが横浜JAZZ協会です。横浜のジャズ文化を復興するために、ジャズフェスティバルを開催できないかと考えていたところ、同じ時期に発足した横浜市文化振興財団(現 公益財団法人横浜市芸術文化振興財団)も国際的なフェスティバルの立ち上げにぜひジャズを、と考えていることが分かり、一緒にやることになりました。それが“横濱JAZZ PROMENADE”です。すでにジャズのイベントとして注目を集めていた“神戸ジャズ・ストリート”に発想を得ました。神戸のストリートに対して、山下公園通りの銀杏並木をイメージして“プロムナード”、横浜の街全域をそぞろ歩きながらあちこちでジャズを楽しんでほしいという願いも込めました。そしてまず手始めにと1992年に横浜JAZZ協会の一周年のジャズ・パーティーを財団と共催で氷川丸で開催してみたところ、海風を感じ、街のイルミネーションの美しさに目を奪われながらのジャズ演奏は、いかにも横浜らしい。ジャズと横浜の相性の良さを多くの人に実感してもらえたんです。

201302220415529584017539ここから本格的に企画を練り、財団に運営の事務局を設置してスタッフを配備してもらうことになりました。当時の高秀秀信横浜市長の後押しも大きかったですね。こうして、1993 年10月9日と10日に第1回を開催する運びとなったのです。この開催によって、横浜はジャズの街だというイメージをもう一度作り直すことに貢献できたのではないかと思います。そしてそのイメージを定着させたいために毎年毎年、続けてきました」

 

 

ジャズで街を元気に

第1回の会場は27か所、ライブステージの数は151 回、 プロ・アマチュア混ぜての出演者は500 名だった。昨年(2012年)の10 月6,7 日に行なわれた第20 回は52 会場で383ステージ、総計3,211名の出演者となった。来場者数は第1回の29,000人から、順調に増え続け、昨年は13 万人を超えている。まさに日本最大規模のジャズ・フェスティバルへと成長し続けた。

©YJP(撮影 クルー山田)

©YJP(撮影 クルー山田)

「会場として参加したライブハウスの軒数の増加にも注目してほしいですね。第1回のときは12軒でした。かつてのナイトクラブの名店も次々と姿を消して、横浜のライブハウスの数はどんどん減っていたときでしたし、残っていたライブハウスからは毎夜の営業のむしろ邪魔になると断られることが多かったんです。それが昨年は24 軒と20 年がかりで倍増しました。つまり、ジャズに経済性が出てきたということなんです。横浜とジャズの結びつきを当然のものとして皆が受け入れて、ライブハウスが営業していけるようになってきた。毎日、ミュージシャンを呼んで、ライブができるようになってきたということです。そして“横濱JAZZ PROMENADE”を潜在顧客の発掘の場として、またジャズにかかわる人同士のネットワークづくりの場として認めてくれて、積極的に会場として参加してくれるようになったんです」

©YJP(撮影 クルー長澤)

©YJP(撮影 クルー長澤)

ネットワークとしての機能は、復興支援などの社会的アクションで顕著に発揮された。1996年第4回には阪神淡路大震災で被災した神戸のミュージシャンを招聘、2006年第16 回にはハリケーン“カトリーナ”で被災したニューオーリンズのための募金活動を実施、2011年第19回には東日本大震災からの復興支援活動を行なった。続けてきたからこそ、社会のための仕組みとして機能しうるものになってきた。いろんな役割を担えるのだ。

©大河原雅彦

©大河原雅彦

「ミュージシャン同士の交流の場としても役割を果たしていると思います。全国にジャズ・フェスティバルはたくさんありますが、ほとんどが外国人ミュージシャンに焦点が当たることが多いようですが、その点、“横濱JAZZ PROMENADE”は日本人ミュージシャンを大事にしていますから。これだけのミュージシャンが一同に集まると、さまざまな交流が生まれるし、お互いに演奏を聞き合ったりという刺激も得られて貴重な場だと 言ってくれています」

そしてもうひとつのネットワークは、「横濱ジャズクルー」と呼ばれる市民ボランティアによる運営スタッフだ。第1回開催に際して募集をかけたところ、100名以上もの市民ボランティアが名乗りをあげた。第7回目で300名を越え、昨年は約400名が参加した。
「まさに財産です。もちろん街の人口が大きいという利点はあるにせよ、横浜という街が持つ潜在的な力が、ジャズというキーワードを通して顕在化した形だと思いますね。」

これからの“横濱JAZZ PROMENADE”

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近年は、経済状態の悪化から、たびたび存続の危機に見舞われたという。入場者数は増え続けているものの、さらに未来を見据えて、小学生は無料、中高生は1000円という料金設定を導入して次世代の聴衆を育成する努力も始めた。

「まず続けることが大事でしょう。そのために見直すべきところもあるかもしれない。でも13万人もの人が横浜にやってきて、昼夜を通して動くわけですから経済的効果もあがっています。ミュージシャンにとっての刺激的な場所にもなっています。ジャズはこうしてすでに横浜の音楽になったんです。これをもっと継続して行くためのシステムをいかに作るかにかかっているでしょう。50回は続けていかなければ文化は定着しないものですからね」

鶴岡博さんと気仙沼ジュニアオーケストラ「スウィング・ドルフィンズ」 © YJP(撮影 クルー山田)

鶴岡博さんと気仙沼ジュニアオーケストラ「スウィング・ドルフィンズ」
© YJP(撮影 クルー山田)

毎年のフェスティバル当日は、スムーズに会場運営がされているかが気になり、自転車で会場間を走り回るだけで演奏に耳を傾けることなく二日間が過ぎるという鶴岡さん。今年も自転車に乗った姿が見られることだろう。

PROFILE

鶴岡 博[つるおか ひろし]
1939年生まれ。横浜市出身。横浜スタジアム社長 。若葉運輸最高顧問。若葉商事社長。横浜JAZZ協会理事長。横濱JAZZPROMENADE実行員会事務局長。

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2013年2月25日発行号に掲載したものです。