横浜コンテンポラリー・ダンス史 【後編】

Posted : 2012.08.25
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夏から秋のこの季節、横浜で毎年、美術・ダンス・音楽の祭典を1年ごとに開催する「ヨコハマ・アート・フェスティバル」。今年はダンスの祭典「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2012」として、さまざまなダンス公演が行われています。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)など多数の著書で知られる乗越たかおさんに、横浜におけるコンテンポラリー・ダンスの歴史を紐解いていただきました。今号は後編です。前号掲載の前編も併せてご覧ください。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年8月25日発行号に掲載したものです。

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横浜ダンスコレクション

さて前回は、コンテンポラリー・ダンスの黎明期に横浜が果たした役割を書いた。バブル景気の波に乗り、ちょうどヨーロッパで盛り上がっていた新しいダンスをザクザクと紹介して日本の若手のダンサーに大きな刺激を与え、ダンスへの意識改革を促し、日本におけるコンテンポラリー・ダンスの素地造りに貢献したのである。

そして90年代初頭バブルは弾け、招聘公演は激減。だが、コンテンポラリー・ダンスという新しい芸術への認知はそこそこ高まってきていた。有望な若手も出てきている。ならば限られた予算を、国内の若手育成のために使う方がいいだろう……という流れが出てきた。バブルが弾けたことで、コンテンポラリー・ダンスの若い芽が育成される循環に移行できたともいえる。

そうした流れの中で大きな存在を示したのが1996年にスタートし『ダンコレ』の愛称で親しまれている『横浜ダンスコレクション』である。首都圏で毎年行われているダンスフェスティバルとして、この規模のものはほとんど唯一だろう。第一回の目玉はそれまで東京で行われていた「バニョレ国際振付コンクールのジャパン・プラットフォーム」の横浜への「引っ越し」だった。バニョレについては前回述べているが、我が国でコンテンポラリー・ダンスの認知度を上げたばかりでなく、海外雄飛への登竜門として、そして若手が目指せる具体的な目標として、ダンス界全体のモチベーションを上げていた。制作体制が整っているカンパニーでないと海外公演が難しかった時代でも、バニョレならば若手カンパニーでも海外への道が開けたからである。

第一回会場はランドマークホールと関内ホール。バニョレ受賞の海外カンパニーの公演、国内カンパニーの公演、ワークショップ(なんと講師はピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踊団)、トークショーなど、じつに贅沢だった。

ただバニョレはこの年以降「コンクール」から「フェスティバル」に内容を変えていた。つまり「受賞者」は、フランスへ招かれるものの、順位はつかない。これはすでにフランスでは「賞による権威付けは必要ない」というところまで成熟を見せていたからである。

ジャパン・プラットフォームは隔年で行われ、2000年からは「ヨコハマ・プラットフォーム」と名を変えた。ちなみに韓国ダンス界の重鎮、陸完順がこれを見て感動し、後年「ソウル・プラットフォーム」を立ち上げることになる。

日本人の審査員がいて審査員賞も出したが、バニョレ行きを決めるのは本国から派遣されてきた審査員の一存であり、両者にはしばしば乖離が見られるようになった。これは単にヨーロッパのマーケット受けするものを受け入れるだけではなく、日本のコンテンポラリーダンスが、独自の価値観を熟成させつつあったことを示している。ただ当時はアジアにダンスのマーケットは皆無だったため、日本は孤軍奮闘しなければならなかった。すでにいくつかの有名カンパニーは活動拠点をヨーロッパに移してしまっていた。せっかくヨーロッパの後追いを脱して日本独自のダンスが育ちつつあるのに、その受け皿(マーケット)がヨーロッパしかない…… これが当時、日本ダンス界のジレンマだったのである。

そこでダンコレでは、バニョレでヨーロッパへの渡りをつけると同時に、海外から講師を招いてのワークショップや日本のカンパニーの提携公演など、「育成と受け皿」としての機能を充実させていった。2000年に始まった「ソロ×デュオ コンペティション」は若手が挑戦しやすく、時代の流れを読んだものといえる。

横浜赤レンガ倉庫1号館

02年に横浜赤レンガ倉庫1号館が公開され、翌年から会場として使用されるようになると、ダンコレのみならず、ダンス公演の一大拠点と目されるようになる。しかしこの年に梅田宏明がバニョレ受賞したことを最後に、二年連続「該当者なし」の結果が続いた。そして04年を最後にバニョレ(名称は「ランコントル・コレオグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ」に改称)の日本でのプラットフォームは終了することになる。

そして翌05年、全体が「横浜ダンスコレクションR」としてリニューアルされた。「ソロ×デュオ」の賞に「仏大使館賞(副賞はフランス滞在研修)」が加わることで、バニョレの代わりにヨーロッパへの窓口機能を確保。さらに「ビデオ・ショーケース」を設け、訪れた海外のディレクターを含めダンス関係者に日本のダンサーがプレゼンテーションできる場を作った。またシンポジウム等も行い、「出会いと交流の場」としての面を充実させていった。

2011年にはさらに「横浜ダンスコレクションEX」へリニューアル。旧「ソロ×デュオ」を引き継ぐ「コンペティション1」に加え、海外相互交流を強めた「海外フェスティバル交流プログラム」、また経験不問で学生を中心とした若い世代向けに「コンペティション2」を新設した。

「R」「EX」でいうところの「海外」は、ヨーロッパのみならず、よりアジアを意識したものとなっている。2000年の後半から、韓国や中国をはじめとしたアジア各国が、急成長した経済力を背景に数々のダンスフェスを作り、日本を凌ぐ勢いで急拡大しているからである。アジアにおける日本の存在感を強め、かつ遠いヨーロッパではなく近くのアジアで質の高いクリエイションを続けられるようになるためにも、「横浜ダンスコレクションEX」の役割は、さらに重大になっていくだろう。

小さくて活気のある実験の場

ダンスが国内育成にシフトしていくなかで重要な役割を果たしたのが、「育成の場・実験の場」としての、小さくて活気のある劇場やスタジオである。横浜はこちら方面も活発で、次々に新しい才能を輩出していった。

その先駆けが「STスポット」である。開場は1987年。横浜駅からほど近いものの、キャパ60席と小さい。しかしニブロール、チェルフィッチュ、山下残といった人々がここから羽ばたいていき、有名になったあとも実験的な作品を上演しに戻ってきたりしている。またアーティストにキュレーションをさせるなど、常に新しいチャレンジの場として20年間以上も活力を保っている希有な存在である。

また文字通り急な坂の上にある「急な坂スタジオ」(06年)、落語会が目白押しの演芸場の地下にダンス公演も多い「のげシャーレ(横浜にぎわい座)」(02年)、海に近いロケーションが美しい「象の鼻テラス」(09年)なども、小さくて意欲的である。

だが重要なのは、建物だけではない。
野外をツアーしながら作品を見る 「横浜ダンス界隈」(04年~)、アーティストが企画し交流を目指すダンス・コミュニティ・フォーラム「We dance」(09年~)など、規模は小ぶりながらもアーティスト同士、アーティストと観客が触れあうような良いフェスティバルがいくつもある。

また東京国際舞台芸術見本市「TPAM」も2011年より東京から横浜に処を移し国際舞台芸術ミーティング「TPAM in Yokohama」となった。

「育て、つなげ、作らせる」という良い循環が横浜にはある。ダンサーにとってバイト帰りにリハーサル・スタジオに寄ることも容易だ。生活とアート間の距離が、意識のみならず物理的にも近い。それは街が持つ魅力である。

大野一雄フェスティバルとBankART1929

舞踏の創立者の一人であり、歩けなくなっても車椅子で踊り、103歳で亡くなるまで世界中の尊敬を集め続けた大野一雄も横浜にゆかりの深い人だった。舞踏家として立つ前に体育教師として奉職したのも横浜の学校であり、大野一雄舞踏研究所が現在の保土ヶ谷に建てられたのは1961年頃のことだ。ここには世界中から舞踏を学びに人が訪れた。大野はここで旺盛な創作をし、テアトルフォンテ(横浜市泉区民文化センター。93年開場)等でも盛んに公演が行われていた。

2004年から大野一雄舞踏研究所とBankART1929の主催する「大野一雄フェスティバル」が始まり、以後毎年開催されている。存命中(創設当時)の個人名を冠したダンスフェスは珍しい。初めは舞踏がメインだったが、回を重ねるにつれ、より広い意味での身体表現が公演されるようになっている。

KAATとDDD

そして「これだけあるのにまだ作るの!?」と他県民を驚かせたのが、KAAT(神奈川芸術劇場)である。

2011年のオープニング・プログラムはダンスがない始まりだったが、その後は、バレエ、ストリートダンス・フェスティバルや、横浜日仏学院など海外との共同企画で公演も行われている。昨今のコンテンポラリー・ダンスは中規模作品が主流である。そのため県民ホールのような大きいところではなかなかフィットする作品が難しい。結果、横浜赤レンガ倉庫1号館に集中しがちだった。そこで小劇場・中劇場も備えるKAATは、これから重要な存在になっていくだろう。

そして極めつけともいえるのが「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2012」の開催だ。芸術的なプログラム以外にも、「市民参加」「横浜観光」など大がかりなプログラムが控えており、横浜という街全体を踊らせようという勢いである。

30年前にコンテンポラリー・ダンスを紹介し、その後アーティストを育成し、観客を育て、国内外との交流を深めてきた横浜が、より市民のレベルにまでダンスを浸透させようとしているかのようだ。

ヨコハマはまだ、進化を続けている。

 

PROFILE

乗越たかお(のりこし たかお)
作家・ヤサぐれ舞踊評論家。
06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。ソウル国際振付フェスティバル審査員。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!?』(エヌティティ出版)、最新刊はダンス100年の歴史がわかる『ダンス・バイブル』(河出書房新社)他著書多数。

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年8月25日発行号に掲載したものです。