横浜の光と影から発想する。 映画プロデューサー 筒井龍平

Posted : 2013.12.06
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福島県の昭和村にある廃校を舞台にした映画『ハーメルン』。9月に公開された東京の映画館には、静かな余韻に浸って去りがたそうな観客の姿が多く見られた。その『ハーメルン』が横浜の映画館「ジャック&ベティ」で公開される。この映画のプロデューサーの筒井龍平さんに道程を聞いた。

★筒井龍平さんメイン小_7406

映画プロデューサーになるまでの遠い道のり

横浜・日本大通りの銀杏並木が見事に色づいたころ、大桟橋にほど近いオフィスに筒井さんを訪ねた。
筒井さんが初めてプロデューサーを務めた映画『ハーメルン』でも、廃校の校庭に立つ1本の銀杏の木が象徴的な役目を果たしている。そもそも、その銀杏の木から坪川拓史監督の映画作りの物語は始まり、そして監督と筒井さんを結びつけたのもその銀杏の木であった。不思議な出会いのストーリーは後で紹介するとしよう。まずは筒井さんが映画プロデューサーとなるまでの道のりを。

大学時代から「コミュニケーション」の分野に興味を持っていた筒井さんは、2000年に大学を卒業し、IT 企業でメディア・コンテンツ分野の新規事業開発などに携わった。世はまさにIT バブル真っ盛り。日本の急成長産業のただなかで動いているというエキサイティングな実感があったという。数年後、ITバブルがはじけて業界は一気に急降下、右往左往する同業者の様子を目の当たりにして、ビジネスの世界からいったん離れようと考えた。映像プロデューサーになるという「夢とロマン」を思い出したのだ。

「現実逃避だったのかもしれません。でも一方で、ネットのことがわかる映像のプロデューサーというポジションが必要とされるだろうと、冷静に市場分析しての決心でもありましたね」
そのポジションを獲得するためにはと、当初はUCLAのフィルムスクールへ行こうと考えていたが、東京藝術大学大学院映像研究科が横浜に新設されるというニュースを知り、受験し入学した。プロデューサー・コースに在籍。社会人経験のある生徒は他に2名。当時のコースは、監督、プロデューサー、撮影・照明、編集、美術、録音、脚本の7つだった。この大学院で得たものは大きかった。

何よりも今の筒井さんを作るにあたって一番役立ったのは、授業で映画を実際に作ったこと。予算を与えられ、当時の最新の撮影機材を自由に使い、新港埠頭にある映像スタジオも使用できた。プロデューサーの仕事はどのように学んだのだろうか。
「学ぶものではなく、実際にやって失敗して学んでいく、いや盗んでいくものですよね。たぶん10人のプロデューサーがいれば10通りのやり方があるもの。正解があるわけではなく、プロデューサー力が何点だとテストで測れるものじゃない。映画を実際に作る作業の中で、プロデューサーの役割や技術というのはこういうことなのかと体験できました」

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腹をくくった『ハーメルン』との出会い

大学院で技法は学べたものの、実際に映画プロデューサーとしての仕事に巡り会ったのは、卒業してから4年目のことだった。
「チャンスをずっと窺っていた中で、運命的に坪川拓史監督に出会い、覚悟を決めました」
そこには銀杏の木がもたらした不思議なエピソードがある。

そもそも『ハーメルン』は坪川監督が長年温めてきた企画だった。舞台となる廃校を求め、全国を探し歩いていた監督が、昭和村の旧喰丸小学校にたどり着いたのは、2009年1月。1980年に閉鎖されたこの廃校は解体が決まっていたが、監督の申し出に、村長をはじめとする村の人々が理解を示し、撮影終了までの校舎保存が決定。2009年夏から風景などの撮影を開始した。しかし、秋に予定されていたメインの撮影は、諸般の事情で1年延期に。まだ正式なプロデューサーはいなかった。

2010年7月。坪川監督が昭和村でのイベントのために訪れた際、校舎で休もうと車を降り、車椅子のおばあさんとそれを押す女性たちの一行とたまたま行き遇った。坪川監督は、そのおばあさんが昭和村在住の元教師でその娘と孫とともに銀杏の木を訪れていたのだと知り、言葉を交わして別れた。

「母から坪川監督のことを知らせる電話が来ました。そのおばあさんこそ僕の祖母で、付き添っていたのが僕の母でした。会津の山奥の昭和村は、母の生まれ故郷。たまたま帰郷していた母が、母校を舞台にした映画撮影の計画を聞いて懐かしくなり祖母と校庭を訪れたところに、坪川監督と出会ったということだったんです。そして映画の仕事をめざしていた息子に連絡を寄越した。話を聞いてすぐはうさんくさいかもと用心したのですが、何か運命的なものを感じて思い切って監督にメールを出しました」

筒井さんがプロデューサーを引き受けるべきか迷っている間に、『ハーメルン』の撮影は予想もできなかった災難に見舞われていた。2010年秋のメイン撮影は、異常気象の影響により銀杏が色づく前に雪が降ってしまい、開始2日前にして中断を余儀なくされた。2011年5月の撮影再開に向けて準備を進めていた矢先の3月、あの大震災が起こった。

幾度もの中断をしている映画の行方が過酷であることは目に見えていた。しかし筒井さんは、坪川監督の前2作品、『美式天然』と『アリア』を観て監督の映像哲学を知り、子どものころによく遊んだ昭和村との縁と、祖母が昭和村の教師で祖父が校長先生を務めていたという偶然を再認識し、この映画のプロデューサーに名乗りをあげることに――「ついに腹をくくりました」


映画のプロデューサーとは何をするヒト?

映画プロデューサーの役割とは――。脚本を撮影用に改稿する、俳優の出演交渉やスケジュール調整、撮影現場を準備して整える、そして何よりも映画を作りあげるための資金の調達という重大任務。
「撮影現場で役者やスタッフが120パーセント力を出しきれるようなステージを用意するのがプロデューサーの仕事の一歩。撮影が始まったら、何事も起こらずスムーズに物事が進むことを一心に願うわけですが、たいがい何かが起こる。今回は信じられないようなことばかりが起きた。その火消しと再出発のために奔走するのがプロデューサーの仕事の本領部分。腹をくくってプロデューサーを引き受けた以上は、もう何が何でもやるしかなかった」

筒井さんがプロデューサーとなってから3年掛かりで、『ハーメルン』はついに公開を迎えた。
「贅沢な映画になりました。監督、俳優、スタッフ全員がぶれることなく同じ価値観を共有していた。その幸福な空気感が映像に焼き付いています。そのために役に立てたのならすべての苦労が報われました」
★銀杏とハーメルンポスター_3025

横浜でモノをつくること

筒井さんは藝大大学院入学とともに横浜に移り住んだ。大学院時代に興した会社は7年目の今も大桟橋や山下公園に近いノスタルジックなビルにある。『ハーメルン』公開間近に生まれた3人目の子どもと家族5人で暮らす自宅は本牧のほう。横浜に住み、横浜で仕事をする意味はどこにあるのだろう。

「横浜には光だけでなく陰の部分もあるのが魅力。映画も光と影の芸術。きれいで明るく、かっこいいところを強調するばかりではなく、猥雑でゆるいところも残していくべきだと思います。でもこの感慨は、僕が生粋の横浜人ではないせいかもしれませんね」
「そして横浜は空が広い。東京よりもずっと。海を身近に感じること。空と海と風を感じることは、モノを生み出すうえで大切な条件です」

今、筒井さんは藝大大学院の卒業生どうしのつながりを仕事に生かす仕組みも組み立てていこうと考えている。
次のプロデュース作品ももうすぐ発表できるという。横浜の空気を吸いながら、創造性をもって仕事する人、筒井龍平さんに注目し続けたい。


PROFILE  つつい・りょうへい
東京都生まれ。2000年、慶應義塾大学総合政策学部卒業。ITベンチャー数社にてメディア・コンテンツ分野の新規事業開発等に従事した後、2005年、東京藝術大学大学院 映像研究科の1期生として入学。在学中の2006年に、(株)トリクスタを創業。2007年、同大学院を卒業。「ハーメルン」プロデューサー。

 

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(C)ハーメルン製作委員会

「ハーメルン」
忘れかけていた、忘れてはいけないこと。
時の流れの中で静かに息づく小さな村と、そこに凛と生きる人々の姿を優しく描き出す
[物語]
ある村の廃校に、その小学校の元校長先生(坂本長利)が暮らしていた。校長先生は、もう使われることのないこの校舎を修繕しながら、「消えゆく我が舎」をいとおしむように静かに日々を送っていた。しかし、いよいよその校舎も解体されることが決まる。ある日、かつてこの小学校で学んだ男・野田(西島秀俊)が博物館の職員として、校舎に保管されていた遺跡出土品の整理にやって来る。野田には、誰にも明かしたことのない「小さな秘密」があった……。
【監督】坪川拓史
【キャスト】西島秀俊、倍賞千恵子、 坂本長利ほか
【プロデューサー】筒井龍平

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(C)ハーメルン製作委員会

 

<上映情報>
横浜シネマ・ジャック&ベティ
期間:12月7日(土)〜12月20日(金)
時間:12月7日(土)〜12月13日(金)  11:50〜14:05 / 12月14日(土)〜12月20日(金)  19:35〜21:50

★当ウェブサイトのfacebookで「ハーメルン」鑑賞券のチケットプレゼントを行なっています。
12月9日まで。詳しくはこちらへ。
https://present.crocos.jp/70425