中野成樹さん(演出家)

Posted : 2009.08.25
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「Yokohama Creative People」第1回目は、野毛山にある「急な坂スタジオ」のレジデント・アーティスト「中野成樹+フランケンズ」演出家・中野成樹さんにお話を伺いました。中野さんは、昨年5月に閉館後の横浜市立野毛山動物園で行われたユニークな演劇公演「Zoo Zoo Scene<ずうずうしい>」を演出されました。この公演は大好評で、今年の9月に再演が決定しています。翻訳劇にこだわりながら、斬新な演出でリアルな舞台を創造する中野成樹さんに、演劇との出会いから横浜を拠点に活動するまでについてお話をしていただきました。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2009年8月25日発行号 に掲載したものです。

演劇との出会い、そして演じる側へ

Q. 演劇との出会いはいつ頃ですか?

中野成樹さん小さい頃から、父親が演劇を観るのが好きでして。父親が昔、いわゆる新劇青年だったんですね。新劇好きで、その父のグループの中に一人俳優座の役者さんがいて、小さいときから俳優座には連れて行かれていたんですよね。

確実に記憶があるのは、俳優座では多分中学1年生くらいのときです。イプセンの『海の夫人』を観たという記憶がある。で、なんか分かんないけど、なんとなく真剣に見ていた記憶がありますね。

新劇を意識したのはやっぱり中学に入ってからですね。大学時代、一緒に演劇をやっていた人に、「なんでお前演劇やってんだ?」と聞くと、たいてい役者志望の女の子とかは、「違う自分になりたい」とか、「違う人になれる」とか言うんです。あるいは男とかは、「やっぱ生でさ、生の感情でそのとき起きることを皆に、大勢の人に伝えられるからいいじゃん」、って答えが返って来たりしたんですが、僕は全然ちがっていた。

僕がなんで演劇をやってるか、演劇の一番の魅力はなにかといえば、それは「嘘であることだ」というのがすごくあって。どんなにそこで真剣に泣いたりしていても、「それ嘘じゃん」、「嘘なんだよこれ。」っていう感覚がすごく好きで。

それというのは、小さい時に人形劇のカーテンコールで、『ジャックと豆の木』かなにかだったんですけど、すごく楽しくて、きゃっきゃっと観ていて、最後にフィナーレになって、幕が閉まってくる。「あ、終わっちゃうんだ」と思って、幕が降りかけたところで、また幕が開いて、もう一回(人形が)奥から出てきて、それが2、3回繰り返されて、最後に「すとん」と終わっちゃう。その瞬間に、「あ、あの世界は消えたんだー」と思う。そのとき味わった切なさというか、「あ、なんか目の前にあったものが本当に消えてしまったんだな」というのが、小さいころの演劇体験で一番惹かれたところなんだろうなと思っています。

それがなんかずーっとこう続いていて、「結局それ嘘じゃん」とか、「そこでやられている行為っていったい何なんだろう」、って考えるきっかけになったのは、“小さい頃のカーテンコール体験”がきっとあるのかな、とは思っています。


Q. 演劇を観る側から演じる側に移られたのはいつ頃からですか?

大学に入るときですね。それまでは中学・高校は吹奏楽部で、ずっとトランペットを吹いていました。演劇はまるっきりで。観ることはあったけど、観に行っていただけで、別に好きではなかったんですよね。連れて行ってもらえるから観るというだけで、積極的に「演劇に連れて行ってよ」、って頼むわけでもなくて。断然やるのは音楽のほうが好きだったし、音楽でずっと進んでいきたかったのですが、なんか、ほんとわかんないです。

大学に入る時に、「オレ演劇やる」ってこう突然。 なんでなのかな。音楽大学に行きたかったけど、まあ一つには音大にいった高校の先輩が、非常に馬鹿にみえてしまったからなんです。 その人は音楽大学に入って、すごく嫌な人にどんどんなっていってしまった。

「○○先生のレッスンにやっと通えるようになったんだよ」、「○○先生ってドイツしか行ってないんでしょ、結局ドイツ音楽しかわかんない人がさ」、とか、「結局あの人はアメリカ寄りの音楽しかわかんない」とか。「結局あの人コンクール入選止まりじゃん」とか、「明日オレN響のトラ(エキストラ)で(舞台)にのって」、というような話を高校生相手に自慢するような人になってしまった。本当に、こうはなりたくないと思って、音楽大学にいくのがちょっと嫌になっちゃって。

自分は日本大学の付属高校にいたんですが、推薦制度があって、日本大学芸術学部がその選択肢の中にあったので、なんとなく選んだんです。 その時に、なんとなくですね、「あ、演劇かな」と。何かを表現するとか、は当然興味があったのだとは思うのですけどね。 それで演劇を選んで、大学に入って演劇を本格的にというか、ほぼ初めて始めた。そして大学2年生の時に授業の中の発表で、定番だけども、ソートン・ワイルダーの「わが町」という作品を演出する機会があった。

他に立候補する人がいなくて、僕は単位を落としまくっていて、多分卒業も危ういだろうから、今やっておかないとオレ演出できないと思って、「じゃオレとりあえずやる」って(演出を)やったのです。それで初めて翻訳劇をやったのです。その時に、翻訳劇っておもしろい、と。

当然、みんな若いから、「気持ち悪くねー? お互いジョージとかエミリーとか呼び合うの?」って言うんだけども、じゃあ、「それがケンジとサトミだったら納得いくの? 変わらなくない? ジョージもエミリーも、ケンジもサトミも?」っていう。じゃ「なにが気持ち悪いんだろうね?」というのを考えて、「だってアメリカの話じゃん。これ?」「じゃ日本の話だったら納得いくのか?」という話を散々して、それが、翻訳劇に興味を持つきっかけになったのでしょうね。


Q. 翻訳劇のその「気持ち悪さ」ってお笑い女芸人の「友近」のアメリカの
人気テレビドラマ「ビバリーヒルズ青春白書」のパロディネタみたいですね。

友近の、あのアメリカの女の子の真似のうまさに圧倒されるんですけどね。なんだろう、あのうまさは。あれも、正解が無いじゃないですか。アメリカ人でもないし日本人でもない。リアリズムじゃないですよね。 真ん中につくられたものですよね。

コントと写実の間につくられたものであり、アメリカと日本との間につくられたもので。 すごいなと思っていて。あれって自由だなと思います。そうか、友近とかを観ると翻訳劇の可能性がわかりますね(笑)。 おもしろいんだ、翻訳劇って、本来的に。みたいな。


Q. 卒業後は演劇をやめる人も多いと思うのですが、ずっと続けていこうと思ったきっかけは?

なんですかね。わかんない。 その、極論なんですが、選択肢の中に、どっかの段階で、大学で演劇がおもしろいと思ってズブズブのめり込んでいった瞬間から、演劇をやめるという選択肢が自分の中でなくなっていた気がするんですね。 就職するか、演劇やっていくか、というそんなことを考えるっていうシチュエーションには出会わなくて。

だから、「えっ、なんでみんな続けないの?」というような感じでした。「芝居続けていくには、バイトすればいいんでしょ」というのが当たり前のものと思っていたので。今も芝居やるのが当たり前と思っているので、自分で一生芝居やっていこうと決意した瞬間、迷うものってあんまりなかったのかな。

でも最近、それがすごく恵まれていることなんだな、とつくづく実感することは多いですね。やっぱり同じ年で芝居やっていた奴がどんどんどんどん、芝居から離れていってしまって。「なんでー?」って聞いたら、「実は親父が死んじゃって会社継がないといけないんだよ」とか、「結婚して子どもできてさ、本当にやっぱり稼がないと」と言うのを聞くと、「あ、僕は幸せなんだな」と。

演劇やりたいと思って、演劇できるから幸せだなと思うのと同時に、「あ、もしかしたら僕は大切な何かを見失っているのかもしれないな」という気もします。どっちが幸せなのかわかんないなという気はしてますけどね。

 

翻訳劇の魅力

Q. 「中野成樹+フランケンズ」での活動は翻訳劇にこだわられていますが、
劇団の活動と翻訳劇の魅力についてお話いただけますか。

2003年から「中野成樹+フランケンズ」という劇団で活動しています。実はその前から似たようなメンバーで、「フランケンシュタイナー」という名前で活動を続けていたんですが、2003年に、それまでやってきたことを整理して新たに立ち上げたんです。自分で言い出したんですが、通称「中フラ」と呼んでくれと言っています。それはまあ、「アサスパ(阿佐ヶ谷スパイダース)」にあやかりたいという意味です(笑)。

劇団では、基本的には翻訳劇をやっていて、おそらく翻訳劇専門でやっているカンパニーというのはあんまりないと思っています。だから、翻訳劇以外は手を出したくない、とさえ思ってしまう。

じゃあなぜ翻訳劇をやっているのか、と当然聞かれるわけですけど、翻訳劇が一番演劇の可能性がたくさんある気がします。例えば、テレビドラマとか映画で日本人が、海外のシチュエーションで、外国人の役名で、海外のことを演じるってほとんどないですよね。 日本人が日本人の顔をして、なんか、「ジョナサン」とか呼び合うのはやっぱり気持ち悪い、拒否反応とかあるからテレビとかやらないのかな、と思っているんだけれども。

でも演劇の場合、逆にそれがばかばかしく見えておもしろいのかもしれないなあと思うんです。なんかそこにすごく可能性があるような気がするんですよ。「日本人」が「外国の本」を「日本語」でやる。そうした場合、「正解」がどこにもないんですよね。「海外の本物」でもないし、「日本人」が「日本人」をやるわけでもないし、例えば海外の人に「いや違うよ、僕たちの国ではそんな感じじゃないんだよ、もっともっと荒々しくて」と言われても、「いや俺達日本人だからわかんないもん、その感覚。」っていう、「正解」はどこにもなくて、なんか自分達の中にしかその世界はなくて、完成される世界はない。そんなこともできるのがきっと翻訳劇のおもしろいところかなと思っているんです。

「44マクベス」2009年公演より

「44マクベス」2009年公演より

例えばシェイクスピアにしても、僕が今年上演した「44マクベス」という作品は当然「マクベス」をもとにしているんですけど、だから本当ならば11世紀のスコットランドが舞台なんですよね。でも「44マクベス」では設定を11世紀のスコットランドではなくした。かといって、今の日本に置き換えた訳でもない。じゃあ、「いったいどこの話なんだ?」ということなのですが、この公演は、日暮里のd-倉庫という会場でやったんですけども、すると僕の中でこれは「日暮里のd-倉庫で日本人がマクベスをやる」というお話になるんです。

だから、どこだ? と問われれば日暮里ですね。そこで、人の話を人に伝えているというスタンスですかね。できるだけおもしろくね。そういう視点で演劇を考えるのが非常に好きで。そこに全ての工夫があるのだろうし。この感覚が僕の基本的なスタンスですよね。自分自身のことじゃなくて、他人(ひと)のことを他人(ひと)の言葉でしゃべりあってるだけ、みたいな。で、それを他人(ひと)に見てもらう、みたいな。その複雑さみたいなものがとてもおもしろい。なんか答えがでないから、おもしろいのであって、決して等身大の悩みを伝えたい、とか、今の日本の社会を、とかそういったことには全然興味がなくて。

「他人(ひと)の言葉を他人(ひと)の言葉でしゃべるのを他人(ひと)にみせる自分がいる」ということの凄みというか、冷めているようでものすごく熱くて、熱いようでものすごく冷めているという感覚が僕にとって演劇の一番おもしろいところだし、一番アイデアを発揮できるところなんです。それには翻訳劇がベストだろう、ということで翻訳劇をずっとやっています。


Q. 同世代の演劇はオリジナル脚本の作品が主流だったと思いますが、
そんな演劇に対してどのように感じていましたか?

おもしろいなーって思っていました。単純に演劇というジャンルが好きだから、その中でホントにおもしろいなーと思ったし、この人はこんなことをやるんだという見方でしたね。

中フラと並行しつつ卒業後10年間やっていた劇団では割とそういう、いわゆるシモキタ系の小劇場ものをやっていました。その一方で翻訳劇はずっと続けてましたが、それが、いわゆる小劇場のメインストリームではないものをやっているという認識はすごくありましたね。でも、これはこれでおもしろい、いいことやっているんだから、別にいいんじゃないかなと思っていました。

小劇場の中でやっている人は、作品としておもしろいんだけど、結局それに付随して、売れる・売れないという話が出てきてしまって、「あそこ客すごいよね、人気あるよね」というようなことからすごく離れたかった。そこから離れて勝負したかったのかなと思う部分もありました。そういうところから離れたところに、翻訳劇というものはあるな、という認識をすごくしていた気がします。

ライバルは、少なくてよかったなということかな。例えば、今の音楽でいえば、例えば、たとえばロックという言葉で言われるような音楽をみんなたくさんやってるじゃないですか。その中で、僕一人、なんだろう、例えば民謡をやっているようなものだから、「あ、オレ民謡なんだな(笑)」。

意識的に、みんながロックやってるから民謡をやろう、と思ったわけではなくて、好きなことやろうと思ってたらそれがたまたま民謡だった、というだけなの。無理はしないで済んだから、それはすごくいいなというか。いますよね、ロックやりたいけど、ロックじゃ勝ち目ないから違った場所さがしてみようぜ、と思って三味線始めてみたりとか。そうではなくて、ホントに好きなものが、ふと気づいたら、「ロックじゃないんだこれ」みたいな。

Q. 同世代のライバルはいなかったとしても、中野さんが選ばれている「翻訳劇」というのは、演劇史に残る名戯曲ばかりですね。ものすごく大きな相手ではありませんか。その相手と向かい合いながら、本筋を崩さず、リアルな感覚を表現していくことは、とても難しいことだと思うのですが。

まったく仰るとおりです。全くの海外古典でありつつ、全くの日本の現代劇をやりたいと思っています。別に崩すのが目的でなくて、茶化すのが目的じゃないし、原作は原作ですごく好きなので原作に対する敬意みたいなのは絶対に忘れたくない。
でも、それでいながら、日本において原作どおりにやるということは絶対にありえないんだけども、そのありえないということに新劇の人たちは気づいていなかったんだろうなーと思う。

「海外と同じやり方をすればきっと海外と同じものができる、日本語でも。」ってずーっと思ってたんだろうなーと。「原作どおりにやる」といった時に、原作の筋とか台詞を紹介するだけなら、そのやり方は正解かもしれないけど、そうじゃなくて演劇としておもしろいことをやるんであれば、違ったやり方をするのが「原作どおりにやる」っていうことなんじゃないのかな、とどこかのタイミングで僕は思ったんですよね。

Q. 翻訳劇をそのままできない、その壁のようなものとは、中野さんにとってはどういうところですか?

すごく単純なことですけど、たとえば英語の原作60分を日本語でやると80分になりますよね。劇場で観劇体験していると、その20分はあまりにも大きい。 あと、平田オリザさんとかもよく仰っているけど、英語のアクセントは強弱のアクセントじゃないか、と。でも、日本語ってきれいに話そうとすればするほど高低のアクセントになってきちゃって、もう質感がぜんぜん違う。

たとえば今度やる動物園物語も、”I’ve been to the zoo.”という言葉だけど、これを向こう(英語圏)の人が本当の発音で言うのと、日本語の「動物園へ行ってきたんですよ。」とはもう、全然質感が違うと思うんですね。 ノリがちがう。”I’ve been to the zoo, Mr.?” って言うのと、「動物園へ行ってきたんですよ、僕は。ねえ旦那?」というのは違いますよね。じゃ、その原作のぽんぽんとしたものをやるには、「あの、なんか。動物園行って。なんか。」くらいのほうがぽんぽんぽんっていくんじゃないかと。

Q. 台詞のテンポであるとか言葉遣いへのこだわりは、
中野さんの最初の表現活動が「音楽」であったということがとても関係しているように思えますが?

自分も、音楽の発想で創っているな、ということがすごくよくあります。音響という意味ではなく。どうにかして、交響曲とか、ソナタ形式というものを強引に演劇に持ち込めないか、と本気で考えてみることがあります。演劇は同じ台詞やシーンを2回使ったりすると前衛と思われてしまう。交響曲のように一つのモチーフをどんどん発展させたり、主題をつくって展開させたり、第2楽章はこれを変調させてというように理論的にがっちりした骨組みたいなものって美しいから、それが演劇に活かせないかという発想はありますね。

 

横浜で活動するということ

Q. 横浜を活動拠点にされたきっかけは?

「暖かい氷河期」2006年公演より

「暖かい氷河期」2006年公演より

大学を出た後はやはり稽古場が無くなって、それに一番苦労しましたね。他の人もきっとそうだと思うんだけど。最初は、典型的ですが近所の公民館巡りですね。 当時は、「うるさい、きたない、壊す」とかで演劇は敬遠されていてたので、「朗読の会です」とか言って、公民館巡りを散々やっていました。当時は東京だったので、豊島区、練馬区、文京区とかです。

その時は、「POOL-5」という劇団で10年間、小劇団活動をやっていました。当時は小劇場活動で名前を売っていこう、大きくなろう、と思っていて、メンバー達と、いわゆるフェスティバルやコンペみたいなものに出ようか、と言ってた時に、たまたま横浜のSTスポットで「スパーキングシアター」というのをやっていました。9つぐらいの劇団が出て、30分位の芝居をオムニバスでやって優勝者を決めようというものでした。それに応募してみようかと。

それで、STスポットに応募したんですね、でも応募する前に、ダンスをやっている先輩がいたのでSTスポットのことは知っていて、僕は一目で劇場を気に入ってしまった。あの白壁とあの空間ですね。それで、当時メンバーの了承も取らずに次の日勝手に電話をかけて劇場を押さえて、応募する前に一本、STスポットで上演したんです。それで、より一層好きになってしまった。

そして応募して2年目に運よく優勝することができた。「チェコビアン・イン・トウキョウ」というタイトルで、チェーホフの桜の園の第4幕を40分でやりました。チェーホフ・オムニバスみたいな。おもしろかったですね。 それが1998年だったと思います。それでその優勝の特典として、翌年に1週間無料公演できました。それでSTスポットとのつながりがすこしずつ増えていきました。

その頃、STスポットの館長をなさっていた田中啓介さんは劇場がしっかりと作家や演出家や役者を育てていかないとダメだという考えをお持ちの方でした。 当時としては、そのような考えを持っている方はあまりいなかったと思います。小さな劇場なのに、劇場付のアーティストを作ろうと思っていらして、利用がないときは稽古に使ってもいいし、公演・制作も面倒みてやる、その代わりいいものを創れと僕たちに言ってくれたのです。それからSTスポットが「契約アーティスト」という制度をはじめてそのアーティストに選んでいただいた。それが縁で、横浜で活動するようになったというわけです。

僕らにしてみると、公民館めぐりって本当に辛いんですね。1ヶ月間に4コマしかとれないから、稽古を40日間やる場合なんか、10箇所くらいを転々と廻って。 稽古場表で、「明日どこ?」みたいなことをやっていて。そんな時に、空いている時はSTスポットを自由に使っていい、そして館長が22時過ぎても多少ならいいよ、って言ってくださって思う存分稽古ができた。それでより一層横浜との結びつきが強くなっていった。当時、メンバーはみんな東京に住んでいたのに稽古をするために横浜に通っていたわけです。

その後STスポットが、アートネットワークジャパンと一緒に急な坂スタジオの運営をすることになり、急な坂スタジオで2006年から活動することになりました。

Q. 演劇活動をする上で、「急な坂スタジオ」の魅力と、横浜という地域の魅力についてお話いただけますか。

「急な坂スタジオ」の魅力は、ここにいるスタッフが自分の制作を応援してくれていることですね。それは、精神的にもです。 場所も提供してくれているし、物理的にもお手伝いをしてくれますが、でも精神的バックアップをしてくれる人がいる場所であることが一番大きい。 例えば、公演を見に来てくれる。次の公演をやるときに、急な坂スタジオを稽古場として使用してなかったとしても、見に来てくれる。フランケンズじゃない、外部で演出をしても、公演の情報をなんとなく知っていて、「観に行きます。」と言ってくれる。やはり、活動を追ってくれているということでしょうね。

以前、「坂上がりスカラシップ」にコメントを寄せたんですが、作り手としては、上質なものを目指す権利がある、と。その代わり、バックアップしてもらったら、作り手は妥協してはいけないという緊張関係。これだけ手伝ってもらってつまらないものをつくってしまったら申し訳ないと。だから急な坂スタジオじゃないところ、例えば東京で公演するときは、「行ってくるよ!」みたいな気持ちですね。

横浜の魅力は、なんだろう、答えになっていないけど、「東京じゃない」ということですね。横浜のお客さんと東京のお客さんは全然違っていて、それは以前東京と横浜で同じ公演を同時にやったときに分かったんですが、それはメンバー全員が言っていた。東京は、お客さんがチェックしに来てる気がするんですよ。「こいつらどんなことやるんだろう」みたいな。それって、やってるほうは疲れてしまう。「俺ら消耗されるんだな」みたいな。

言葉に絡めとられて、カテゴライズされてジャンル化されて消費されていくんだという怖さがすごくあった。横浜のお客さんはチェックしたりしないですよね。「あ、やってるんだ、観よっか」と言って、観る。そんな気がします。

Q. 横浜でお気に入りの場所はありますか?

最近は野毛山動物園が大好きですね。カグーという鳥がいて、最高なんです!日本で普通にカグーが見れるのはいまは野毛山くらいしかないそうです。カグーは横浜の誇りですね(笑)。STスポットで芝居をやりはじめた頃に、待ち時間がとても長くて、そのときに横浜めぐりをしました。野毛山来て、動物園行って、みなとみらいに行って観覧車乗って、ランチ食べて、そしてゲネをやったという(笑)。 その後は、急な坂スタジオに通いはじめてから、入園無料ですし、足しげく通っています。 みんなで来ると、「とりあえず行ってみる?」みたいな。今日虎だけみない?みたいなことをやっています。

 

「ずうずうしい」について

Q. 野毛山動物園での再演が決まった「ずうずうしい」ってどんな公演ですか?

「ずうずうしい」2008年公演より その1

「ずうずうしい」2008年公演より その1

端的にいえば、大人の遠足です。まず急な坂スタジオに集合。そこで、当日のスケジュールを説明して、ここからみんなで動物園に行きます。そこで40分くらいかけて動物園を一周。去年はスタッフがガイドを務めましたが、今年は飼育員の方がガイドしてくださるのが大きな違いです。 そこで、ひだまり広場に来ていただいて、初めはステージじゃないところで(パフォーマンスを)見て頂き、途中でステージに移動して頂いて、また観ていただいて、最後に急な坂に戻ってきて、トークして終了。全部で4時間くらい。参加者数は1回の公演で限定50名です。

Q. 今年の「ずうずうしい」は去年と違うところがありますか?

昨年の「ずうずうしい」は、発見があまりにもありすぎて。当初は、単純に、野外でやりましょうというお祭り的なイベントで終わるかと思ってたのですが、意外にも演劇の本質を考えさせられる機会になりました。動物園と演劇というものは本当に似ていて、動物をどうみせるか、というのと役者をどうみせようかというのはまったく同じです。より進んでいるのは、動物園はもっと大きな使命を持っていて、動物をみせるというのはその課題のひとつなんだろうな、と。で、それは演劇も同じで、役者をいかに誰にどのように見せるかということを考えていて。 演劇というのはもっと大きな社会的な役割とか果たさなきゃいけない任務みたいなものがあるかもしれない、と考えたり、単なるお祭りじゃ終わらなかった。

「ずうずうしい」2008年公演より その2

「ずうずうしい」2008年公演より その2

僕たちは一体、何を、誰に、どう見せたらいいんだろう、どうやって来てもらったらいいんだろう、という根本的なことを動物園の方は考えていらっしゃるんでしょうね。 それから、本番中動物が啼いてうるさい(笑)。だから劇場についても考えました。猿がうるさかったんですよ。場所はひだまり広場ということころでやりました。その近くに猿がいて、芝居に合わせて啼くんです。後で聞いたら、何か自分たちにとって異物が来たら仲間に知らせるために啼くらしい。理由をきくとね、寛容な気持ちになりますね。

今年は去年とは変わります。演目の「動物園物語」は同じですが、まずキャストが変わるのと、去年やってみてわかったことがあるので、そこは丁寧に新しく作ります。

先ほど翻訳劇の大きな壁の話をしましたが、やはり最近は、演劇は、定期的に今やっていることに少しずつ手を入れて、少しずつ育てて行くことが必要なんだと思っています。初演はやはり初演で、初演のよさがある。でも、2年、3年ごとに手を入れていくことが演劇のおもしろさだろうなと思います。今回の再演はすごく嬉しいことですし、前回気づいたことに手を加えていきたいと思っています。
9月の公演がとても楽しみですね。是非伺いたいと思います。
本日はありがとうございました。

2009年7月29日 急な坂スタジオにて

 

プロフィール

中野成樹[なかの しげき](演出家)

1973年東京生まれ。演出家・中野成樹+フランケンズ主宰。中フラは翻訳劇を専門にあつかう国内でも数少ない集団でもある。「誤意訳(誤訳+意訳)」なる手法で海外古典を今に流れる現代演劇へと仕立て直すが、多分に余計な要素を混ぜ込み、本編とはまるで違う小道へもたどりつく。この4月より有明教育芸術短期大学芸術教養学科演劇コースの専任講師にも。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2009年8月25日発行号に掲載したものです。