デザイナー、中川憲造のヒミツ。「学級新聞」から『PeRRY』への一本道

Posted : 2017.05.27
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グラフィック・デザイナーでクリエイティブ・ディレクターの中川憲造さん。横浜に住む人、訪れる人の多くがそのデザインに親しんでいる。ランドマークタワーや赤レンガ倉庫のおみやげショップで、横浜国際競技場で、YCATで、神奈川新聞の紙面でも。そして公式交通マップは必携で、赤い靴をはいた女の子の姿や、ブルーダルメシアンは横浜のアイドルだ。代表を務める NDCグラフィックスを訪ね、そのデザインの原点について、これからについて、お話を聞いた。

Photo: Morimoto, COLOR COORDINATION

 

横浜の魅力をデザインで発信

横浜・馬車道から横浜港や赤レンガ倉庫へと向かう途中の運河にかかる万国橋。そのたもとに建つ元・物流倉庫、その名も「万国橋SOKO」にデザイン会社NDCグラフィックスはある。ここに移転したのは2006年。天井が高く、何にでも活用でき人が集える開放的な広々とした空間、窓から見える海の色の移り変わりが、今でも気に入っていると中川さんは言う。

Photo: Morimoto, COLOR COORDINATION

 

「このランプ、可愛いでしょう」。赤く塗られたランプはイタリア製。ここに移転する以前から20年以上も使っているもの。エントランスから奥の作業デスクまでの長い導線を演出している。高い天井を活かし、作業デスクの一番奥の壁際は高さ4メートルほどの大きな本棚が。ミーティングスペースのデスクは横浜港が一望できる最高の場所に置かれている。

「リノベーションの際にはこの空間の魅力は何かを“推理”しました。お金をかけたくないのでコンクリートの床や天井はそのままで結構です、その代わり電気配線がむき出しでも美しく見えるように、このランプを活用してほしいと技術者に頼みました」

Photo: Morimoto, COLOR COORDINATION

 

仕切りのない開放的なオフィスの窓側に社長席はある。めったに座らないというが、その机の上には 1月に創刊された『PeRRY(ペリー)』が置かれていた。ヨコハマ・シティブランディングマガジンと謳うこの雑誌のエディトリアル・ディレクターを務めた中川さん。序文には「横浜のカルチャー・人・都市デザイン・アート・エンターティメント・歴史に光をあて、課題を提起し横浜スピリット溢れるクリエイティブ・ピープルの「内燃機関」となって、クリエィティブ・シティを牽引する。」と言葉を寄せている。ニューヨークでも、シアトルでも、ロンドンでも、それぞれの都市の地域誌が魅力的なコンテンツとデザインで発信されている。横浜でも、との思いを『PeRRY』に託したのだそう。

このマガジンを手にした中川さんが、少し遠い目になって語り始めたのはデザイナー、ディレクターとしての自らの原点だ。

Photo: Morimoto, COLOR COORDINATION

 

 

学級新聞「ポプラ」の編集長

今は廃校になってしまった大阪市立南陵中学校がその舞台だ。大阪生まれの中川さんは、この中学校1年生のとき、学級新聞づくりに出会った。その名も「ポプラ」。
「週間紙でしたから、毎日学校へは新聞作りに通っていました。楽しくて、面白くてね。自分で題字を決めて、取材して文章を書き、カットやマンガも描いて、レイアウトして謄写版で刷る。今から考えるとまさしくデザインということをしている。これが僕のデザイナー人生の原点だと気づきました」

学級新聞の編集長として采配をふるい、そして2年生の時には学校新聞を任されるようになる。その体験はチームをデザインすることの訓練でもあった。|
「休刊中だった学校新聞の復刊を先生から頼まれ、2カ月ごとに発行し続けました。でも一人で作ったわけではありません。取材責任者に印刷部長、レイアウト担当、印刷担当などの役割分担を決めて任せちゃう。チームをデザインしていくことの大切さを学んで、チームでものを作る楽しさをたっぷりと味わいました。僕は幼いころにいたずらして駆け回っていたころから、チームで遊ぶことが大好きで、一人で黙々と作ることは好きじゃなかったんだね。仲間と分担して作って、自分は余力ができると次の企画を考え始めるんです。次から次へと企みがわいてきてしまうから」

この体験がデザイナー、そしてデザイン・ディレクターの原点と中川さんは笑う。

中学校時代の「学級新聞ポプラ」 創刊号 364 x 257 mm

 

「らせん階段を回るようにずっと同じことをやってんねんな、って今思います。もちろんその後の数十年の間にデザインの世界から多くのことを学んだから、技術的には高度になっているとしても、中学の時の新聞作りを今もやっているのかもね。仲間といっしょに、チームでね。中学生の時にやっていたことを、時間と場所を変えて『PeRRY』でやっている。学級新聞じゃなくて、今度は“横浜市”新聞を作っているんです」

『PeRRY』創刊号 2017年(発行・横濱まちづくり倶楽部)

右;Photo: Morimoto, COLOR COORDINATION

 

 

ジャーナリスト系デザイナーであること

学級新聞づくりではほかにもデザイナーとしての素質を培ったのだと言う。それはジャーナリスト的な視点と発想、“刑事コロンボ”のように企みやシナリオを推理する能力だと説明する。

「僕は自分を“ジャーナリスト系デザイナー”だと自負しているんです。たぶん日本でほとんどいないジャーナリスト系。絵が上手いから、絵心があるからという理由だけでデザイナーになってはいけない。デザイナーに必要なのは、ジャーナリストの視点、そして刑事のようなシナリオ推理能力です。この犯罪はどうデザインされたもの、どう企まれたものであるのかを推理するのが刑事でしょう。刑事もジャーナリストも、目に見えないものを探り、それを顕在化させることが使命。つまり地中にある地下鉄とか下水の設備とか、地上に見えていない仕組みを探ること。ジャーナリストの役目というのは、まだ知られていない大切なこと、みんなが興味を持つだろうというテーマを提示して、地下や背景に潜んでいるものを顕在化させてみせて、誰の目にも見えるように理解できるようにすること。まさに、デザインが果たさねばならない大きな仕事は、みんなに理解してもらうことですから、子ども時代の僕が無意識のうちに持つようになっていたものが、後に大いに役立つことになったんです。だからジャーナリスト系デザイナーになれた」

『PeRRY』掲載「横浜港入港客船」

 

中川さんの考えるデザイン、そしてデザイナーとはなんだろうか?もう少し語っていただこう。それはジャーナリスト魂や“刑事コロンボ”魂に関係しているらしい。 
「デザインの重要な役割のもう一つは問題解決。そのためには今ここで何が問題となっているのかを正確に把握しなければなりません。たとえば牛乳のパッケージのデザインを頼まれたとします。かつての話になりますが、丸い瓶だと隙間がいっぱいできて出荷や運搬の効率が悪いことに問題点を見つけなきゃならない。それを四角の紙パックにすると隙間がなくなり効率がいい。問題点に気づき、それを形やサイズや材質や色彩で解決するのがデザインの果たすべき役割です。あるいは情報をどうやってみんなに理解してもらうかを解決するのもデザインです。新聞や雑誌の中で、このニュースやデータはどう見せるべきか、文章なのか写真なのか、理解をはかるためにわかりやすい図解がいるだろうかと。問題点を調べて、得た情報を誰もが理解できるように伝えることには、ものごとの本質や背景を推理する刑事魂やジャーナリストの視点も必要です。デザインは自己表現ではないんです」

実際、中川さんのインフォメーション・デザインの手腕には驚かされる。ユーモアのある表情も加味されて、楽しく読み解ける情報に変貌しているのだ。それが中学生時代までに培われた刑事魂とジャーナリスト精神から来ていたのだとは。

「起業家精神ランキング/現在、会社設立中ないしは設立後42か月以内の会社運営に携っている人の割合」2001年

 

デザイナーになる

 さて、学級新聞の編集長だった中学生がいかにしてデザイナーになったのか。中学3年生の時には将来の目標をデザイナーと明確に定めていた中川さんは、大阪市立工芸高校図案科に入学する。バウハウス教育を実践するこの高校でみっちりとデザインの基礎を学ぶことになる。
「真っ白な15,6歳の少年に、王道のデザイン哲学がすーっと染み込んでいきましたね。それまで子ども時代の遊びの中で手に入れていた資質が、すべてデザインという技術に収斂していくように。そこからはもうデザイナーへの道まっしぐらでした」

就職にあたっては持ち前のジャーナリスト魂と刑事魂を発揮して、憧れの日本のデザイナーの出身をくまなく調査し、狙いを定めた高島屋宣伝部に入社を果たす。
「最初にどこで仕事をスタートするかというのは実は大事なことだったと今になって思います。僕の場合は幸い高島屋宣伝部を出発点にすることができ、トップレベルの広告や宣伝の伝統を体感できた。とてもラッキーでした」

プロのデザイナー、中川憲造の誕生である。1975年には大阪を出て東京の日本デザインセンターへ入社する。そこからの東京ADC賞、ブルノ・グラフィックデザイン・ビエンナーレ特別賞をはじめとする活躍ぶりは誰もが知るところだ。

高島屋宣伝部時代の初期の作品。「堺高島屋DM特別招待会案内のDM」420 x 297 mm

 

横浜という場所を面白くする

日本デザインセンターの「企業内企業」として総合グラフィックス研究所(NDC グラフフィックス)が設立されたのは1986年。時は奇しくも、横浜が都市デザインの大きなうねりの中で多くのプロジェクトをデザインの力を借りて行おうとしていた時代であった。中川さん自身もまた、グラフィック・デザイナーの職域を拡張し、生活デザインの視点から、プロダクトや環境の分野にまたがるトータル・デザインを実践しようとしていた。そんな横浜の熱い季節のさなか、横浜ランドマークタワープロジェクトが1991年にスタートし、ランドマークタワーの工事用仮囲いを手がけ、1992年「第7回CSデザイン賞」金賞を受賞することになる。これが中川さんと横浜の関係性が堅固になる大きなきっかけだった。その賞金でパズルを作り関係者へ配布したことから、横浜ランドマークタワーのオフィシャルショップ・プロジェクトの運営が任されるきっかけとなり、グッズを企画・製作・販売するエクスポート社を設立し、そのインフォメーション&デザイン・ディレクターに就任する。そして1994年にNDCグラフィックスが設立され、横浜スタジオが開設された。

「40歳そこそこの僕に大きな仕事をよく任せてくれたと。期待に真剣に応えなければならないから、横浜のプロジェクトは横浜に事務所を構えなければいけない、それで横浜に来たんです。でもね、もし僕が横浜に来ていなかったら今頃、横浜はさびしかったと思うよ」といたずらっぽく笑う。

「その場に臨まないと得られないものっていっぱいありますよね。横浜をちゃんと調べたら、とてつもない潜在的な魅力があることがわかりました。これを全部伝えなければという使命感がむくむくと出てきました。いや、僕がそこにいることでその場所やその地域がどれだけおもしろくなるか、どれだけ快適になるか、というのは常に意識しているんです」
自身のデザインで横浜を“おもしろい場所”にしてきた自負が見えた。

「横浜ランドマークタワーの工事用仮囲い」1992年

「CSデザイン賞」賞金で作り配布したパズル 1992年Photo: Morimoto, COLOR COORDINATION

キャラクター「ブルーダル」 (神奈川新聞日曜文化面連載)

神奈川新聞の題字

「歩行者案内マップ(横浜関内地区周辺案内図)」2002年

「横浜市民ギャラリー」Symbol 1996年

 

生活の中の「美」

中川さんのデザインにはどこか親しみやすさや人懐こさ、普段の生活とかけ離れていない身近な感じがある。子ども時代のお話を伺っているうちに、中川さんが膝を打った。
「今、昔のことをいっぱい思い出しています。住吉大社の境内と大和川べりが子ども時代の遊び場だった。ちょっと歩けば工場地帯があって、セメント工場の倉庫に潜りこんだりとかね。真っ黒けのドブ川があってね、そこに真っ赤っかのザリガニがいたりね。ハッとしてきれいだと感じたことは鮮烈に覚えています。縁日やお祭りの猥雑な「美」。そういう普段の中におもしろいものや美しいものを見つけて、心が動かされていた。そう、これまで気がつかなかったけど、子どもの頃に見つけたああいう「美」こそが、僕のデザインの中に無意識に生きていたんですね」

「SHOPトリエンナーレ」のプロデュース(グラフィック・アート;永井一正)

「銀座カリー」1994年

 

横浜を、いや日本を代表するデザイナー、中川憲造さんが今デザインに思うことはなんだろうか。
「この年齢になって最近思うのは、クリエイティブをこれから目指す人たちに大きい背中を見せること。大きな目標を持っている人がいることを見せること。最高のものを知った自分がやりとげられなかったことは、次の人が受け継いでやってくれれば嬉しい。ジャン・クリストフの最後の言葉「私を越えていけ」の心境ですね」

「国土交通省制定JISピクトグラム」(デザイン;SDA+中川憲造/NDCグラフィックス)

 

(文:猪上杉子)

 

プロフィール

中川 憲造
KENZO NAKAGAWA

グラフィック・デザイナー。クリエイティブ・ディレクター。1947年大阪生まれ。高島屋宣伝部、日本デザインセンターを経て、デザインを生活者の視点で企画制作するデザイン会社・NDCグラフィックスを設立。企業のデザインコンサルタントから製品開発、ブランドマーク、パッケージングなど「チョコレートから環境まで」そのデザイン領域は多岐にわたる。国土交通省制定「公共ピクトグラム」、横浜市中心市街「案内地図」、横浜「ブルーダルメシアン」プロジェクトのデザイン・ディレクターなど。