「石内 都 肌理と写真」横浜美術館で開催中 記憶を織り続けた40年を見る

Posted : 2018.01.04
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国際的に最も高く評価される写真家のひとり、石内都さんの大規模個展「石内 都 肌理(きめ)と写真」が、横浜美術館において開催されている(2018年3月4日(日)まで)。石内さんは横浜との縁も深い。横浜の暗室から生み出された初期作品から未発表作にいたる約 240 点が4つの章で展示されている。展覧会を石内さんの写真人生とともに紹介しよう。

©Ishiuchi Miyako/撮影©大野隆介

 

「40年も写真を撮っていたなんて信じられないですね。それなのに撮ることはいまだにちっとも好きじゃないんです。だから時間をかけずにさっさと撮影します。大好きなのは暗室に籠っている時間でした。でも写真はいつも新たな人との出会いをもたらしてくれました。今日はそんな方々と再会できて嬉しいです」
そう語る石内都さんは、展覧会の開会式に小柄な体を黒い着物に包んであらわれた。モノクローム写真を思わせる墨色の着物だが、八掛けの鮮やかな朱色が足さばきの折りに目に入るとなんとも艶めかしい。石内さんの生まれ故郷、桐生で織られた反物から仕立てた着物で、帯は知人からもらったものだと説明する。「着物には、絹には、物語があるから」と。
今回の展示テーマのひとつに「絹」を掲げるため、石内さんの発案で、内覧会のドレスコードは「本展のテーマのひとつである『絹』にちなみ、ぜひ和服か絹素材のものを身につけてお越しください」というもので、横浜美術館のスタッフも着物姿で来場者を迎えた。来場者にも着物姿が目立ち、展覧会場は華やいだ絹の光沢にあふれた。「絹」はまさに、石内さんの故郷、桐生と横浜をつなぐキーワードだ。

そのキーワードをあらわす約3×4メートルのプリント6点が正面入り口グランドギャラリーに掲げられている。あたかも桐生から横浜への石内さんの物語のプロローグのように。これは2014年に、横浜の北仲地区、かつて帝蚕倉庫群があった場所の工事のための仮囲に展示されたものだ。帝蚕倉庫には桐生をはじめとする全国からの絹が集まり、横浜港のふ頭から海外に輸出していたのだ。

©Ishiuchi Miyako/撮影©大野隆介

 

石内さんの「絹」への想いは展覧会本編へと続いて行く。

 

横浜 Yokohama
——写真に刻印された風景と記憶

©Ishiuchi Miyako/撮影©大野隆介

 

石内都さんは、1947 年群馬県桐生市生まれ。6歳のときに神奈川県横須賀市に移り、思春期を過ごした。その後、一家で横浜市金沢区へ転居。1975 年、金沢八景の自宅に暗室を構え、写真家としての活動を始めた。写真は独学だった。
「写真と出会ったのはたまたまです。ひとりでできるから。桐生に生まれ、横須賀で育ち、横浜に来たことは、私の意志ではないけれど、ここで写真を始めて続けてきたことは私の意志です」

1977年、デビュー作の〈絶唱、横須賀ストーリー〉(今回は同時開催のコレクション展内の写真展示室において特別展示されている)から2000年以降に撮影された〈Mother’s〉に至るモノクローム写真のほぼすべてが、この横浜の暗室で制作された。
重要な被写体でもあり続けてきた「横浜」。〈金沢八景〉シリーズは、デビュー前に自宅周辺の風景を撮影したものだ。長時間露光された空や雲、覆い焼きされた地平線など、その後の初期三部作へと繫がる粒子の表現が試みられている。

《金沢八景 #8》1975-76年 ©Ishiuchi Miyako

 

〈Apartment〉は石内さんが女性写真家として初めて第4回木村伊兵衛写真賞を受賞したシリーズだ。1977年から1978年にかけて撮られた弘明寺や富岡東、平沼や、1980年代に撮影された山下町のアパートの9点が展示されている。

「暗室から生まれた写真はヴィンテージプリントとなり、時間と空気をたっぷり吸って粒子の粒を際だたせる。」
と石内さんは展覧会に言葉を寄せているが、その背景はこうだ。
この展覧会の準備にあたって、石内さんがアトリエの収蔵庫の作品を調べたところ、過去に雑誌で発表したことはあるが展示したことのなかった作品と、展覧会に出品されたが写真集に収載されることのなかった作品が大量に発見された。そのひとつ、〈yokohama 互楽荘〉シリーズも、収蔵庫に約30年もの間、写真集にまとめられることなく眠っていた。
ヴィンテージプリントとは写真家が撮影したと同時に、もしくは隔たらない時期に写真家本人の手によってプリントされた写真を言う。
「写真はネガがあればいつでも同じ写真ができると思われているが、実はそんなことはない。特に私のプリントは感情的で身体的なプリントなので同じ写真を作ることができない」(石内都『写真関係』筑摩書房、2016より)
と石内さんは語っている。この〈yokohama 互楽荘〉のヴィンテージプリントからは30年分の時間と空気にふれて濃密になった30年前の石内さんの感情が立ち昇ってくる。
30年前、バブル期の建設ラッシュが始まった1980年代半ばは、横浜では開港以来の歴史を物語る近代的建築物が取り壊された時期だ。山下公園に近い山下町24番地にあった互楽荘は1932年(昭和7年)に当時の最新技術を駆使して建てられた高級アパートだ。最先端の豪華な住居としてもてはやされた時代は戦争とともに翳りを帯びることになる。戦中は日本海軍に接収され、戦後はわずかな期間であったとはいえ占領軍兵士用の慰安所になっていた。その事実を石内さんが知ったのは互楽荘の撮影を始めてからだという。衝撃を受けた一方で、この建物に惹かれたことを必然的なことだと納得したのだそうだ。1986年、石内さんは1年をかけて、互楽荘の最後の姿を撮影した。そしてその時のプリントが30年の年月の後に石内さんの前にあらわれたのだ。
この横浜の風景はもう石内さんの写真の中にしか存在しない。

《yokohama 互楽荘 #2》1986-87年 ©Ishiuchi Miyako

 

この章の最後には、横浜を拠点に活動した舞踏家、大野一雄さん(1906年- 2010年)の身体を写した〈1906 to the skin〉が展示されている。2010年に逝去した大野一雄の身体もまた石内さんの作品の中に刻まれている。

©Ishiuchi Miyako/撮影©大野隆介

 

 

プリントは手仕事、染物に似ている

「暗室の作業が大好きだった」と語る石内さん。2008年にアトリエでのプリント作業の様子を記録映像で見ることができる。
「印画紙をロールで買ってきて、自分で好きな大きさに切って、焼き付ける。大変なのは大量の水で洗うこと。一番しんどい水洗の作業。でも一番大切な作業と思っていました。なんだか紙ではないものと格闘していた気がします。写真ではないことをやってきたような気がするんです。染色にも似ていて。モノクロの世界は白と黒の間に無数の色があって。その粒子を一個一個数えていたのかもしれないですね」
水に浸した印画紙を手のひらで慈しむように撫でて「これでおしまい」といとおしそうにつぶやいている姿が、印象的だ。

 

絹 Silk
——桐生と横浜をつなぐ

©Ishiuchi Miyako/撮影©大野隆介

 

「この部屋の展示はとてもうまくいったと自画自賛しているんです」と石内さんは満足げに語る。美術館やギャラリーの空間に合わせて、どこでも展示はすべて自分で考え抜くのだと言う。
「この空間は難しかった。壁をすべて銀色にしてみたらうまくいきました。絹の写真でその壁をすべて埋め尽くした。この空間をすべて使ってやるぞ、という私の意志を感じてください」

〈絹の夢〉を石内さんが撮り始めたきっかけは、広島で被爆者の遺品を撮影したことからだった。2007年に〈ひろしま〉の撮影を始めた石内さんは遺品にも絹の衣服が多数あり、半世紀以上の時間を経ても残る絹について考えることになる。そうして石内さんは、幼い頃に桐生で聞いた蚕が桑の葉を食む音、織機の音を思い出したのだという。
2011 年、群馬県桐生市に残された絹織物、銘仙を撮影したのが〈絹の夢〉だ。銘仙は、ヨーロッパの前衛美術の動向を取り入れた斬新なデザインと鮮やかな色彩が特徴で、日本の近代化を支えた大正・昭和の女性たちが普段着として愛用した着物だ。

《絹の夢 #50 併用絣銘仙 桐生》2011年、アーツ前橋蔵 ©Ishiuchi Miyako

 

絹織物の産地として知られる桐生と、生糸や絹織物の輸出で発展した横浜。ここにも必然がある。
「蚕という虫が繭をつくり、繭が絹糸となる。その過激な変貌がまれにみる艶と光沢をもたらし、一瞬、絹の夢が実現した歴史があった。私が生まれた桐生と横浜も同じ過去をもつ。」
と石内さんは展示室内に記す。

2017 年、石内さんは新たに二つの「絹」と出会った。ひとつは、アメリカのファッション・デザイナー、リック・オウエンスさんの亡き父が日本で入手した着物。もうひとつは、徳島県に戦前より伝わる阿波人形浄瑠璃の衣裳。〈阿波人形浄瑠璃〉と〈Rick Owen’s Kimono〉の展示から、石内さんの「絹」を訪ねる旅は続いていることを知る。

 

無垢 Innocence
——「距離」を撮る、「関係」を撮る

©Ishiuchi Miyako/撮影©大野隆介

 

「人は無垢であり続けたいと願望しながら、有形、無形の傷を負って生きざるをえない。」(石内都『scars』蒼穹舎、2006より)
1990 年頃から継続する傷跡のシリーズの制作は、石内さんにとって生きることの根源的な意味を問い直す作業だった。〈Innocence〉は女性の傷跡だけを集めた写真だ。石内さんの母の身体にも大きな火傷の傷があったという。からだに傷のあることと無垢であることは相反しないと思っていた石内さんは、この〈Innocence〉を撮影し制作する過程で、それは確信になっていったそうだ。
「写真とは“距離”を撮ること」と石内さんは言い、そして
「女性の傷なんて見たくないと言う人もいるでしょう。でもそれは私にとっては関係ないこと」と笑う。
「写真は私の意志であり、私との距離なのです」
その距離とは、〈Innocence〉では共感のように見える。

〈不知火の指〉は、小説『苦海浄土』の著者であり詩人でもある石牟礼道子さんの手足を接写した写真だ。1927年に生まれた石牟礼さんの 90 年の時が刻まれた、言葉を綴る人の手だ。

《不知火の指 #1》2014年 ©Ishiuchi Miyako

 

 

遺されたもの Belongings
——悲しみの記憶

©Ishiuchi Miyako/撮影©大野隆介

 

〈Mother’s〉は、母親の死と向き合うために撮影された。
「同性の人間の一人として客観的な距離をもって母の遺品を写真に撮る。
今ある現実をそのまま受けとめようとした時に、色彩が目に入ってきた。」
〈Mother’s〉は、石内さんの写真がモノクロームからカラーへ移行するきっかけとなった。

下着から撮り始めた石内さんは、直接肌に触れていた下着は第二の皮膚であるという考えからモノクロームで撮ったのだそうだ。そして次に口紅を撮影した際、モノクロームでは口紅がきれいに写らなかったため、カラーフィルムにしたのだという。
「重くならず、強くならず、意味を付けず、そのまま写す。」(石内都『写真関係』筑摩書房、2016より)
この後、石内さんの写真はカラーフィルムが中心となり、「愛してやまなかった」暗室作業の時間は少なくなっていったという。

《Mother’s #35》2002年 ©Ishiuchi Miyako

 

〈Motherʼs〉は石内さんを遺品の前に連れていくことになる。広島で被爆した人たちの遺品へ、桐生に残る大正、昭和の銘仙の着物へと。そしてもうひとつの遺品との出会いが訪れる。2005年、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表作家に選ばれて〈Mother’s〉は世界の目にとまる。そのひとりにある学芸員がいて、その後、石内さんはメキシコのフリーダ・カーロ博物館から、近代メキシコを代表する画家フリーダ・カーロ(1907年-1954年)の遺品撮影を依頼された。2012 年、フリーダが生まれ死を迎えた「青い家」で、大量に残された衣服や、日常生活の品々を撮影し、それは3週間におよんだそうだ。
「フリーダの遺品を撮ることには彼女の生活を暴くようで、気がひけるような思いがあった。フィルムを100本持っていき撮影を始めたものの、最初は緊張してうまくいかない。メキシコの現像所には出しちゃいけないときつく言われていたのですが、どうしてもプリントを見たくなりプリントしてみたら、これじゃいけないと思った。フリーダのことはよく知らずに行ったのですが、彼女の遺品を撮っているうちに彼女の苦痛や悲しみ、毎日身近にあった死への想いが胸に迫ってきて、これまで作り上げられた彼女のスキャンダラスなイメージは間違っている、誤解されていると気づいたんです。ようやく彼女が私に『撮ってもいいよ』と言ってくれたように感じました。誰にも見せなかった生活を撮るうちに、フリーダのことが大好きになりました」
石内さんはフリーダの遺品を35㎜のカラーネガフィルムで、ニコンF3を手持ちするスタイルで自然光のもとで撮った。〈Mother’s〉、〈ひろしま〉と同じ向き合い方だ。有名なアーティストであろうと、無名の女性たちであろうと、遺されたものの悲しみは同じだから、と石内さんは言う。

《Frida by Ishiuchi #107》2012年 ©Ishiuchi Miyako

 

石内さんによるフリーダの遺品の撮影は、写真集『Frida by Ishiuchi』、ヨーロッパ最大の国際写真フェア「パリフォト2013」での展示など、世界的な反響を呼ぶ。
2014年3月には、ハッセルブラッド財団(スウェーデン)より「ハッセルブラッド国際写真賞」が授与された。この賞は写真界のノーベル賞ともいわれる賞で、「偉大な業績をあげた写真家に与えられる、世界で最も重要な写真賞」だ。石内さんの受賞は日本人では3人目、アジア人女性初となる。その受賞理由は、「彼女の強固な個性と妥協のないヴィジョンは戦後日本の表現において最も力強いもののひとつである。その作品は首尾一貫しており、断固とした独自の方法で展開している。カメラとカメラの持つ美的可能性のすべてを用いて、記憶の政治的な側面と個人的な側面が交差する点を探求している」ということだった。

©Ishiuchi Miyako/撮影©大野隆介

 

2007年から撮影を開始した〈ひろしま〉は、石内さんの遺品と語り合うもうひとつの活動だ。終戦から半世紀以上を過ぎてもなお、被爆者の遺品は毎年、広島平和記念資料館に届けられている。その遺品を10年にわたり撮り続けている。地下の収蔵庫の中で資料としてひっそりと保管されているワンピース、ブラウス、スカート、下着などを、自然光の中へと連れ出し、撮影している。

石内さんの言葉が響く。
「広島の少女が着ていたワンピースの花模様の布地のヒダに、ひっそりと隠れていた彩色の美しさに気付いた時、そのワンピースは過去になれない歴史の現し身となり、染め上げられた時間のかたまりとなって、私と同時進行中の現実であるということを、広島の少女が教えてくれた。少女の身体はもうどこにもないけれど、彼女が遺した衣服の記憶は、空を飛び、宇宙のどこかにあるかもしれない記憶の星へといざない、フリーダも母も、亡くなった総ての地球人が肌理(きめ)となり、その星を形造っている。もうひとつの永遠の姿として記憶の星が宇宙のどこかにあることを願って。」(『石内 都 肌理と写真』求龍堂、2017より)

《ひろしま #106 Donor: Hashimoto, H.》2016年 ©Ishiuchi Miyako

 

「肌理(きめ)」という言葉を展覧会のタイトルに決めたのも石内さん自身だ。石内さんと親交が深い映画監督のリンダ ・ホーグランドさんがそれを「grain」と英訳した。grain には穀物の粒、微量、織物の目、石目、木目、肌、人の気質などの意味が含まれる。
「肌理」は石内さんが写真に写し取りたいものにほかならない。
「写真は“記録”と言われるけれども、私の写真は記録とはかけ離れたところにあります。写真は創作であって、嘘つきです。ほんの少しだけ真実のある、感情の記憶です」
そしてもうひとつの「肌理」である粒子へのこだわりは、モノクロームからカラーになっても続いている。
「カラーネガフィルムが製造されるかぎり、現像所があるかぎり、自然光で三脚なしで撮り続けたい。デジタル写真は撮らない。なぜならデジタルの写真は画素でできているから。画素は四角と四角のつながり、そこには隙間がまったくなくぴたっとくっついている。フィルムの写真は粒子でできている。粒子の丸い粒はくっつかないし、隙間があるから」

写真を撮り始めて40年。これから石内さんはどこへ行くのか。
40年以上住んだ横浜、写真人生そのものだった横浜を離れ、桐生へ行くのだという。
その理由のひとつは、島隆(しま・りゅう)という桐生に生まれ、幕末から明治という時代に写真を職業とした初めての日本人女性の存在だ。
「島隆と私が同じ桐生で生まれたのは、単に偶然かもしれない、でも人生に偶然はないのだから」と。
石内さんの40年間の横浜での写真人生をしっかりと見つめておこう。

              (構成・文/猪上杉子)

 

撮影©大野隆介

 


【プロフィール】

石内 都(いしうち・みやこ) Ishiuchi Miyako

1947年群馬県桐生市生まれ。神奈川県横須賀市で育つ。1979年に「Apartment」で女性写真家として初めて第4回木村伊兵衛写真賞を受賞。2005年、母親の遺品を撮影した「Mother’s」で第51回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表作家に選出される。2007年より現在まで続けられる被爆者の遺品を撮影した「ひろしま」も国際的に評価され、近年は国内各地の美術館のほか、アメリカ、オーストラリア、イタリアなど海外で作品を発表している。2013年紫綬褒章受章。2014年には「写真界のノーベル賞」と呼ばれるハッセルブラッド国際写真賞を受賞。作品は、横浜美術館をはじめ、東京国立近代美術館、東京都写真美術館など国内主要美術館、ニューヨーク近代美術館、J・ポール・ゲティ美術館、テート・モダンなど世界各地の美術館に収蔵されている。

 


【イベント概要】

石内 都 肌理と写真

会期:2017年12月9日(土)~2018年3月4日(日)
開館時間:10時~18時(入館は17時30分まで)
*2018年3月1日(木)は16時まで
*2018年3月3日(土)は20時30分まで
(入館は閉館の30分前まで)
休館日:木曜日 *ただし、2018年3月1日を除く
                    年始の休館日は1月4日まで(1月5日から通常営業)
会場:横浜美術館
住所:神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1
アクセス
みなとみらい駅(みなとみらい線)徒歩5分
桜木町駅(JR京浜東北・根岸線、横浜市営地下鉄ブルーライン)徒歩10分(<動く歩道>を利用)
お問合せ:TEL 045-221-0300(代表 10時~18時/木曜日は休館 ※ただし3月1日を除く)

※着物で来館された方は、当日観覧料が100円割引となります。(他の割引との併用は不可)

※横浜美術館コレクション展の写真展示室では「石内 都 肌理(きめ)と写真」に関連して、初期の代表作〈絶唱、横須賀ストーリー〉を55点展示。

http://yokohama.art.museum/special/2017/ishiuchimiyako/

 

これから参加可能なイベント

■学芸員によるギャラリートーク

日時:2018年1月6日(土)、1月19日(金)、2月3日(土)、2月16日(金)
いずれも14時~14時30分
会場:企画展展示室
参加費:無料(事前申込不要、当日有効の観覧券が必要)

■夜の美術館でアートクルーズ

閉館後の美術館で、学芸員の解説を聞きながらゆったりと作品をめぐる、特別な鑑賞会。

日時:2018年2月10日(土)19時~21時(受付:18時30分~ 横浜美術館グランドギャラリー)
会場:企画展展示室
解説:逢坂恵理子(横浜美術館館長)、大澤紗蓉子(横浜美術館学芸員)、日比野民蓉(横浜美術館学芸員)
定員:60名(事前申込、先着順)
参加費:3,000円
申込方法:以下よりお申込のうえ、当日受付にて参加費3,000円を現金にて支払う
申込フォームはこちら
申込締切:2018年2月2日(金)または定員に達し次第