「生」がリセットされる異界。山川冬樹 70時間連続ライヴの(ほぼ)全貌

Posted : 2017.08.17
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去る7月7日午前0時から7月9日午後10時まで行われたYCC Temporary 第二弾、山川冬樹による『LIVE FOR 70 HOURS』。これはアーティストの山川が1929年に建てられた旧銀行のアートスペースの空間に留まり、70時間連続ライヴを行う作品であった。今回、その様子をほぼ70時間体験したビジュアルデザイナーの河ノ剛史がレポートする。

ぺダルに重石が置かれたグランドピアノ、グレッチのエレキギター、年季の入った二胡やチャング、シタールや口琴など様々な民族楽器、ガットギター、シンバルにチェロ、くたびれたエレキギター、大小さまざまなサイズのスチールボウル、大型のディスクオルゴール、人工呼吸器(ピューリタンベネット7200A)、音響機器とラップトップコンピューター、ブラウン管のテレビには砂嵐の映像・・・。それらはあたかもオーケストラのように放射線状に空間の「内側」に向けて配置されている。中央にはベッドが横たわり、床にはそこら中にケーブルが這い回る。銅板や畳、スコップなどは意図的なのかどうか判別不可能な状態で点々と転がっている。

Photo: 齋藤彰英

 

ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ポーン
午後11時59分30秒をお知らせします…
(一人の男が、少し神経質な面持ちで空間の内周をぐるりぐるりと徘徊している)

ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ポーン
午後11時59分40秒をお知らせします…
(ある者は瞬きもせず彼を凝視し、また別の者はカメラを構えて、その瞬間が訪れるのを固唾を飲んで見守っている)

ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ポーン
午後11時59分50秒をお知らせします…
(緊張がはしる)

ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ポーン
午前00時00分00秒をお知らせします

わおぉぉーーーーーーーーーん!!
(彼の咆哮でそのライヴは幕を開けた)


 

「一人の男」とは、山川冬樹(現代美術家/ホーメイ歌手)であり、『LIVE FOR 70 HOURS』は、2017年7月7日午前0時から70時間にわたって行われた単独でのライヴ公演である。ステージは「YCC ヨコハマ創造都市センター」(以降「YCC」と表記)。列柱を並べた半円形のバルコニーが特徴の建物で、1929年に第一銀行の横浜支店として竣工し、現在は横浜のクリエイティブ活動の拠点として活用されている(かくいう私もデザイナーとして、YCCのリニューアルに少しだけ関わらせていただいていた)。
山川がこのYCCでパフォーマンスをするのは今回が初めてではなく、2014年の8月に「グランギニョル未来」というユニットによって上演された『グランギニョル未来』*1以来、実に3年ぶりとなる。このYCCの空間、天高も十分でいかにも雰囲気があるのだが、音が反響しすぎて音声などが聞き取りづらく「音」を扱う上で非常に難しい会場なのである。要するに、既に経験のある山川はそのことを熟知した上で、本公演の準備に望んだと想像する。
また、冒頭で述べた通り、空間にある楽器や機材類が空間の「内側」に向いている(山川に対して正対)ことから、それらはインスタレーションを構成するオブジェのようなものではなく(その光景はあまりにもフォトジェニックだったので紛らわしいが)あくまで山川のパフォーマンスのツールであり「プライベート」なものとして認識するのが妥当だろう。公演中、山川もこの空間を「僕の部屋もまさにこんな感じだ」という旨の発言をしたことからも、楽器や機材そのものを見せることを主眼に置いた空間計画ではないことが窺い知れる。これから70時間にわたり、山川は自身の公私を晒し、私たちはそれを傍観(注:初見の時の心的状況により意図的に用いている)することになるのである。

タイトルはその「LIVE」の語を「Live performance」、すなわち音楽の生演奏を指す名詞として解釈すれば「70時間のためのライヴ」と読むことができるし、「生きる」という現在形の動詞として解釈すれば「70時間を生きる」と読み替えることもできるだろう。しかしここで行われることに事実上その区別はない。なぜならこの公演では音楽の生演奏を指す一般的な意味での「ライヴ」と、私が日常的に「生きる」行為のすべて(睡眠、食事、排泄、入浴、洗面など)が、一つの場で等価に営まれているからだ。(ステートメントより抜粋)


 

はなしを一旦、ライヴの始まりの時間に戻す。
2017年7月7日

午前00時01分 グランドピアノを演奏する(※以下すべての主語は山川)
午前00時12分 椅子から離れるが、グランドピアノは自動演奏を続ける/D(レ)、E(ミ)、A(ラ)、 D(レ)
午前00時13分 チェロ→シタール→エレキギター(アンプラグド)→ヴァイオリン
 それぞれ手に持つが音を鳴らす程度で、演奏するには至らない
午前00時30分 スクリーンにD、E、A、Dのキャピタルレターが順番に明滅しながら表示される
午前00時33分 鳥の囀りを口で鳴らす
午前00時34分 live for 70 hours と呻くように呟く (liveの部分はalive、live[lív]、lifeなど幾つかの単語に置き換わり復唱)
午前00時44分 畳を垂直に立ち上げ、重力に任せて自身の身体共々床に倒れこむ。何度も
午前00時50分 ドラムを叩く
午前01時01分 ホーメイの演奏&時折シンバルを蹴り鳴らす
(中略)
午前03時50分 スクリーンに表示されたtwitterのタイムラインが自動音声で読み上げられる
午前04時09分 はじめての食事(コンビニのお弁当※写真参照)
午前04時25分 大型のディスクオルゴールをかけつつ、オルゴールにまつわるエピソードを話す
午前04時37分 浴槽にお湯を溜めるがなかなか丁度良い湯加減にならない
(続く・・・)


 

「生」が鳴る

こんな調子で山川は淡々と、しかしライヴ自体は轟音とノイズを響かせながら加速度的にドライブしていく。始まって3時間を過ぎた頃。演奏はどんどん激しさを増していた。轟音を掻き鳴らせながら髪を振るう様は、荒々しくも色気があり、その姿はもはや神々しくすらある。山川のパフォーマンスは、過去にも何度か拝見しているが、相も変わらず圧倒的なパフォーマンスだ。絶賛、と同時にふと去来する当然の感情。「えっ?マジこの調子で70時間続くの・・・」。これはおそらく、そこにいた人間が少なからず感じていたことだと思う(その時点で純粋な観客として残っていた者は10人前後だったと記憶している)。しかし、そんなことは取り越し苦労に終わる。04時09分。突然訪れた゚・*:.。.ご飯タイム.。.:*・゚である。そりゃ70時間、飲まない・食べない・寝ない・横にならないの四無行で演奏し続けたら、人が人でなくなってしまうわけで、観ている者としては心から安堵した瞬間である。とはいえ、食事もライヴの一部。お弁当はオーバーヘッドプロジェクタでスクリーンに映し出され、パッケージを破る音から咀嚼の音まで、山川を取り巻くあらゆる情報が空間に還元される。この生活と音楽のフィードバックはその後の入浴から睡眠、排泄にいたるまで終始徹底される。なるほど、これはまさしくステートメントで定義されているところの「LIVE」そのものだ。生活音を音楽へと昇華させる試みとしては、昨年の7月にリリースされたマシュー・ハーバートの『Naked』*2が記憶に新しい。このアルバムは人間の1日の生活の中で体が奏でる音のみをサンプリングして制作された作品である。まさしく、彼は「生」そのものをパッケージすることを標榜していた。また、長時間にわたる喪失を通して、逆説的に自身の「生」そのものを「展示」してみせたという観点で、氏とも親交の深い飴屋法水の『ア ヤ   ズ エキシビション バ  ング  ント展』における「暗箱」*3ともコンセプトが通底しているかもしれない。
が、本公演はパッケージすらされない、文字通り生々しい「生」そのものが、過剰に増幅され(時折歪み)「鳴っている」のである。これは異様な光景である。

Photo: 齋藤彰英

Photo: 齋藤彰英

Photo: 齋藤彰英

写真:筆者撮影

Photo: 齋藤彰英

ちなみにこの日、山川は午前6時45分にコンタクトを外しメガネに変え、7時を回り少し片付けたのち、心音を照明とスピーカーに同期させて眠りについた。そこまでを見届けて、私も仮眠をしに帰宅した。もはや気分は朝顔ならぬ、山川の観察日記である。


 

2017年7月7日

午後07時42分 天井の照明が明滅する
午後07時45分 髪を振り乱しながらエレアコを弾く。スクリーンには過去の自分のライヴ映像
午後08時32分 骨伝導マイクを用いた頭蓋骨パーカッション
午後09時05分 大きな銅板を曲げたり、倒したり
午後09時18分 live for 70 hours と呻くように呟く (liveの部分はalive、love、lifeなど幾つかの単語に置き換わり復唱)
午後09時35分 お手洗い
午後09時41分 様々な人物のインタビュー(映像と音声)
午後10時38分 資料をスライドで映写しつつ、家族に関するエピソードを話す

(続く・・・)


 

拡張する器官・共振する身体

ライヴ中(本人曰くMCとして)いくつかのエピソードが語られた。
最も印象的だったのは、山川の父の話だ(故、山川千秋はニュースキャスターであり、国際的なジャーナリストでもあった)。彼は食道ガンから喉頭を切除することを余儀なくされた。喋ることを生業としている者にとって、大変つらく重い喪失である(闘病の記録は書籍*4として刊行されているので、興味がある方は一読されることをお勧めします)。
その話に続けるように、咽頭を喪失したのちに「声を発する」ということがどういうことか、山川は電動式人工喉頭を用いてホーメイをエミュレートしてみせた。さらにはゲップを使った発声、骨伝導マイクを用いた頭骨のパーカッションと、身体を拡張し空間に音を響かせた。また、鳴らない楽器を弾きながら、その愛着についても語った。そもそも山川が今のスタイルになる根底には「歌を歌えない」ことに端を発する、呻きからのホーメイとの出会いがある*5
メディア論*6で著名なカナダの英文学者・文明評論家のマーシャル・マクルーハンは<テクノロジーやメディアは人間の身体の「拡張」である>と主張した。あるいは、シャーマン研究においての第一人者である、ルーマニア出身の宗教学者・民俗学者、ミルチャ・エリアーデは洋の東西問わずあらゆる民族の諸例から、新加入者が神格化する過程(イニシエーション)に共通のテーマを以下のように見出した。それは<新加入者の肉体の解体とその諸器官の更新である*7>と。超人的な能力と神聖なるものの獲得には痛みを伴った喪失が伴う。

“デイジー、デイジー、頭も体も半分壊れてるー♪”(ライヴ中の歌より)

否定され、あるいは欠損して、それでもかろうじて不可避的に発生した音たちについて、山川は最大限の愛を注ぐ。その全ては、端的に美しく、可能性に満ち満ちていた。

写真:筆者撮影

Photo: 齋藤彰英

Photo: 齋藤彰英

Photo: 齋藤彰英

山川の鳴らすことへの関心は個人のスケールに留まらず、やがて空間へと広がっていく。7月8日13時26分。電子音楽による音圧と音響効果によって空間そのものが一つの楽器のように鳴らされる(ここでは反響がえぐいYCCの空間が最大限に生かされていた)それは、窒息しそうなくらいに恍惚として、あたかもホーメイを演奏している時の山川の身体感覚が自身に転移したかのような錯覚を私たちにもたらした。(ここが70時間のライヴの中でわたしにとって一番のハイライトだったように思う)

振動を通して世界と、他者と、何か大事なものを共有していることを体験したい。それが根底にあるんだと思います。(『じぶんを切りひらくアート違和感がかたちになるとき』フィルムアート社、2010*5より)


 

2017年7月8日

午後10時55分 天井の照明が明滅する
午後10時59分 狼の影絵と咆哮
午後11時04分 大きなドラのような打楽器
午後11時26分 自分のホーメイを、多重に重ねる
午後11時29分 機材の一部をラジコンのように動かしながらうたを歌う
午後11時44分 部屋を片付け始める
午前02時56分 母が購入したという大きなディスクオルゴールをかける
午前02時05分 サンプリングされた瀬戸内海の波の音が響く
午前02時05分 大島の国立ハンセン病療養所について語る

(続く・・・)


 

異界と出会う

本ライヴで定期的に引用されたエレメントがある。それは昔の家族の写真、故人の遺品、異なる言語で語られる幾つかのインタビュー等だ。それらの多くは、自分以外の他者の「記憶」である。

ほんとうに生きた時間が立ち現れるためには、未来から現在が逆照射される必要がある。私たちすべてに等しく訪れる未来、それは「死」である。自らがいつか「死んだ」先の未来を基点にして現在を眺めることによってのみ、私たちはほんとうの意味で「生きる」ことができるのだ。(ステートメントより抜粋)

これを読んだとき、真っ先に思い浮かんだのが日本の伝統芸能である「能」だ。コンセプトが限りなく近いのである。(能について周知の方は、以下の要約について、ぱーっと読み飛ばして欲しい)
能の主要な登場人物には、シテとワキという二人がいる。面をつけて舞台で舞ったり、跳ねたり、目立ったりと縦横無尽に活躍しているのがシテだ。それに対して、ワキは面もつけなければ装束も地味で、目立った活躍もしない。シテと会話をして、シテの話を引き出すのがワキの役割だ。ワキの多くは旅人で、ある「ところ」に行きかけると、どこからともなく女性が現れる。彼女がシテ。そしてシテは幽霊である。(かなりはしょってます)
その二人は異なる時間軸を生きている。ワキは人間であり、我々と同じく未来に向かって「順行する時間」を、シテは会話を通して自分の生きていた過去に向かって引きずり込もうとする「遡行する時間」をこの二つの異なる時間が交錯する時、時空が歪み、異界と出会うのだ。
山川は現在進行形の自分と、別の時間軸を生きる自分(アルターエゴ)を映像を用いて召喚し交錯させる。加えて様々な人の記憶や、政治的なメッセージも同一の時空間で共演している。まさにYCCで過ごした時間は異界と表するにふさわしい。それは、空間を隔てて建物の外が現実で中が異界という意味ではなく、加えて言えばパフォーマンスのスペクタクルがもたらす非日常性でもなく、長時間そこで過ごしていると立ち上がってくる特有の磁場・時制感覚。これについては説明ができないので、異界というより他ない。
さて、能において、異界と出会うということは何を意味するのか。それは、人は異界と出会うことによって、もう一度、「新たな生を生き直すことができる*7」というものである。山川はこのLIVEを通して「生きた時間」とは何かを問うていた。それは古来より日本人が芸能や祝祭を通して伝えてきた物語そのものである。日常の生活で乖離してしまった時差ぼけのようなものをリセットし、本来の「生」の時間を生き直す。それを可能にする「場」こそが、「LIVE」なのかもしれない。

あらゆるものが徹底的に装置化されてゆくこの世界の只中で、既成の規範を逸脱しながら、私は歌いつづけなければならない。生きるために。そして生まれ変わるために。そのための70時間がここに在る。(ステートメントより抜粋)

写真:筆者撮影

Photo: 齋藤彰英

Photo: 齋藤彰英

Photo: 齋藤彰英


 

2017年7月9日

午後06時28分 シタールの演奏
午後06時55分 シンバルとドラムの演奏
午後07時28分 1時間前の映像の話
午後07時37分 ピアノの自動演奏(D、E、A、D)、心拍と照明のリンク
 (さすがに疲労困憊の様子で、かろうじて演奏は続いている)
午後08時41分 骨伝導マイクを用いた頭蓋骨パーカッション
 (最高のパフォーマンス「これを最後にすればよかった」とつぶやく)
午後09時20分 エレキギターでの演奏

ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ポーン
午後09時59分40秒をお知らせします
(会場にいた者は皆、外からバルコニーを見上げている)

ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ポーン
午後09時59分50秒をお知らせします
(一人の男がバルコニーの上に立っている)

ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ポーン
午後10時00分00秒をお知らせします

わおぉぉーーーーーーーーーん!!
(一人の男の咆哮で始まった本ライヴは、咆哮で幕を閉じた)

Photo: 齋藤彰英

Text by TAKESHI KAWANO


 

*1. グランギニョル未来『グランギニョル未来』:2014年の8月にYCC ヨコハマ創造都市センターにて上演された、演出家・飴屋法水と批評家・椹木野衣によるユニット「グランギニョル未来」による公演。原案を椹木野衣と飴屋、脚本を椹木、演出を飴屋が担当した作品となる。出演者には山川冬樹、笹久保伸、飴屋法水、Phew、イルマ・オスノ、青木大輔、サム・フラーらが名を連ねている。日航機123号墜落事故を基にした演劇。
*2. Matthew Herbert『A Nude (The Perfect Body)』、Accidental Records、2016、http://hostess.co.jp/matthewherbert/
*3. 飴屋法水『ア ヤ   ズ エキシビション バ  ング  ント展』(空きスペースを補うと、おそらくは『アメヤノリミズ エキシビション バニシングポイント展』):2005年に六本木P-Houseにて開催された30日間にわたり消失した身体と確かにそこにあるべき気配が展示された大変な問題作で、現代美術の業界では大いに話題になった。
*4. 山川 千秋, 山川 穆子『死は「終り」ではない―山川千秋・ガンとの闘い180日』、文春文庫、1989
*5. 石川直樹, 下道基行, いちむらみさこ, 遠藤一郎, 志賀理江子, 山川冬樹, 高嶺格, 三田村光土里,『じぶんを切りひらくアート─違和感がかたちになるとき 』高橋瑞木 (編集)、フィルムアート社、2010
*6. マーシャル・マクルーハン『Understanding Media: The Extensions of Man』、1964年
*7. M=エリアーデ『シャーマニズム 上』堀 一郎 (翻訳)、ちくま学芸文庫、2004
*8. 安田 登『異界を旅する能 ワキという存在』ちくま文庫、2011