VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.7

Posted : 2010.08.25
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次の横浜トリエンナーレは2011年。その開催に向けての動きの中で、横浜美術館トリエンナーレ担当の天野太郎学芸員が感じたこと、出会ったことなどを紹介していきます。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2010年8月25日発行号 に掲載したものです。

瀬戸内国際芸術祭とあいちトリエンナーレをめぐって

美術に求められる事―あるいは、求められるスピン・オフ

7月14日に四谷の国際交流基金で「あいちトリエンナーレ2010」の記者会見が行われ、横浜トリエンナーレの関係者(事業本部)とともに出席をした。「あいちトリエンナーレ」の芸術監督建畠晢(国立国際美術館館長)によるテーマ「都市の祝祭」についての趣旨説明があった。一通り、本展の狙いや出品アーティストの紹介が行われたのだが、ここで気になった点が二つあった。

一つは、地域連携への姿勢である。

主会場として愛知芸術文化センター、名古屋市美術館が挙げられていたが、所謂地域連携として長者町が会場となる案が示された。建畠芸術監督によれば、この地域がこれまで文化的な活動を展開していたわけではなく、今回初めて地域としてトリエンナーレに取り組むことがわかった。これはこれで、今後、長者町が日常的にアートを中心に新たな街づくりをはじめて行く契機になれば結構な話だが、将来的な枠組みとして、トリエンナーレが地域連携を強化する姿勢は示されなかった。

もう一つは、そもそもこの大規模なトリエンナーレが、何を意図して開催されるのかが最後まで示されなかった点。芸術の祭典と言ってしまえばそれまでだが、国をはじめ各自治体が支えるこうした事業が、今後、相当な予算を注ぎ込まれる可能性は相当怪しくなっている。その意味では、アート=文化が、文化産業、あるいは観光産業につながるためのシナジーとなりえるかどうかは、最重要課題になるべきものなのだが、そのスキームが見えてこなかった。事業の成果を定量、定性両面で求められのは当然のこととして、加えてそこからスピン・オフとしての新たなスキームを生み出すことが強く要請されていることを思えば、今回の「あいちトリエンナーレ」が、旧来の芸術祭の域を超えているものとは見えない。

文化戦略の流れが本格化したと思わせる「瀬戸内国際芸術祭」

一方、7月19日からオープンした「瀬戸内国際芸術祭(以下、「瀬戸内」とする)」は、同じ芸術の祭典という看板をあげているものの、ここには明らかに芸術に加えて幾つかのスキームが見いだせた。その端的な例は、二つの事業の開催要項で最もその違いを際立たせている。それは、後援団体が、「あいちトリエンナーレ」では、文化庁、国際交流基金(ただし特別協力)といった文化系が主だったところであるのに対し、「瀬戸内」は、総務省、経済産業省、国土交通省、観光庁、日本観光協会といった具合だ。ここには、明らかに、文化資本を投入することにより、観光産業の活性化、高齢化する各会場となった島の暮らしへの対応、雇用の創出といった、文化から産業への道筋をつけようとしている意図が見える。

ジャウメ・プレンサ 《男木島の魂》 男木島

ジャウメ・プレンサ 《男木島の魂》 男木島

ところで、日本政府が、中国人観光客(富裕層を対象とした)へのビザ発給条件を大幅に緩和するニュースは、まだ記憶に新しいところだが、年間、8億から9億人と言われる世界の観光旅行者の争奪戦は、昨日、今日はじまったわけではない。ルーブル美術館に、I.M.ペイによるガラスのピラミッドで知られるエントランス・ロビーが完成したのは1989年、爾来、2010年に年間1000万人の観客動員を目標に様々な戦略が立てられ、その目標は、実際に今年達成されている。ルーブル美術館、グッゲンハイム美術館、エルミタージュ美術館などの世界ブランチ構想等枚挙にいとまがないが、そうした文化戦略の流れが、ようやく日本でも本格化する兆しが、「瀬戸内」の事業スキームの中に感じられる。その是非については、今問わないまでも、芸術だけを基軸にした旧来の事業では、もはや成り立たなくなっている現在、「瀬戸内」や、その先行例としての「妻有」の事業スキームが投げかける意味は、今一度再考する価値はあるだろう。

美術の有り方の変容

こうして、美術は、それが布置される場としての美術館から地域へ、あるいは、こうした経済、福祉、観光といった複合的な大規模地域へと、変容する文脈の中で位置づけられようとしている。どこにあってもアートはアートと嘯くのは容易だが、果たしてそう言い切れるものだろうか?

例えば、「瀬戸内」について朝日新聞の電子版に次のような記事がある。

「美しい瀬戸内海の島々には悲話が多い。近代化の高速交通網整備から外れ衰退した海運業の不運。製錬所の排煙や産業廃棄物の投棄がもたらした環境破壊との闘い。誤った政策によるハンセン病隔離の悲劇など。あちこちに残る近代化の負の物語を超克する役回りを、アートは担わされてい(http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201007260172.html)

そもそも近代以降の美術は、脱歴史化されたホワイト・キューブの壁面に展示される表象だった。美術館や画廊といった外部から隔絶された空間に展示されてこそ、美術作品のその本来の自律性が担保されてきた。一方、「瀬戸内」や「妻有」等に見られる本来美術が布置されるような場ではない廃屋等には、それ自身が堆積した記憶の層がある。それらと対峙し、あるいは対話することをアーティストはまず要請される。その典型例は、今回、「瀬戸内」の豊島において展示されている塩田千春の作品であろう。解体された廃屋から集められた窓や扉を再利用して作品化したものだ。住民は、その素材の一つ一つに島の歴史と自史を重ねあわせることになる。

塩田千春《遠い記憶》 豊島 甲生・旧公民館

塩田千春《遠い記憶》 豊島 甲生・旧公民館

こうした事態は、これまでの学問(ディシプリン – discipline)としての美術史が理論構築してきた美術の有り様では抱えきれないことを示している。すでに述べたように、脱歴史化され、中性化された空間でこそ保たれる作品の自律性は、今や美術の有り様の一つにすぎなくなってしまった。歴史的あるいは社会的な文脈の中で美術をとらえるためには、言わば、インター・ディシプリンとでも呼ぶべき様々な領域の研究(study)の動員が不可欠だろう。

ところで、この連載の第五回目で、こうした地域コミュニティ・ベースのプロジェクトの一例として「実際に、同じ町内の住民となったアーティストの作品の質について、住民から質問されたことがある。せっかく迎えたアーティストであればこそ、これから有名な芸術家になる可能性があるのかないのか、住民としては聞いてみたいところだ。」と書いた事がある。これは、黄金町エリアでの話だが、「妻有」、そして「瀬戸内」においてもすでに、準備にかかわった住民の美術にたいするリテラシーが、徐々に備わってきている実例が散見されている。こうした美術をめぐる新たなスキームをどう理解すべきなのか。ここでもまた、美術のあり方の変容を経験することになる。

無論、20世紀の美術が、おしなべて美術館といった場だけを自らの存在の証としてきたわけではない。それどころか、美術館に表象される制度化された美=知への反逆行為は幾度度なく繰り返されてきた。1960年代後半から1970年代前半を主な活動期間としたアーティスト、ゴードン・マッタ=クラーク(Gordon Matta-Clark)は、当時の大量生産・大量消費時代のスクラップ&ビルドが繰り返された都市を素材にテンポラリー(一時的な展示)な作品を制作してきた。それは、とりわけ不況に喘いでいた70年代のアメリカで、下からの都市再生(倉庫街であったニューヨークのSOHO地区にアーティストが住み込んで、活動の拠点にし始めた時期)が、社会批判的に行われてきたという意味で、今日の有り様とは根本的に異なるプロジェクトであったと言わざるを得ない。

 

Gordon Matta-Clark 《Conical Intersect》, 1975

Gordon Matta-Clark 《Conical Intersect》, 1975

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日のコミュティ・ベースのプロジェクトにおける美術には、それ自身が内包する批評的態度よりも、地域との共存といった地域再生に寄与する姿勢が要請されている。従って、ゴードン・マッタ=クラークが活躍した時代のラジカルさにとって代わって、地域コンセンサスが、そのモットーとなっているというわけだ。

関連サイト

あいちトリエンナーレ2010
http://aichitriennale.jp/

瀬戸内国際芸術祭「アートと海を巡る百日間の冒険」
http://setouchi-artfest.jp/about/

 

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜美術館主席学芸員。横浜トリエンナーレ組織委員会事務局
キュレトリアル・チーム・ヘッド。

 

 

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2010年8月25日発行号に掲載したものです。