VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.23

Posted : 2013.10.25
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横浜美術館の天野学芸員が綴る、アートをめぐっての考察。 「アートとは?」と問い続ける連載です。

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第23回:美術館と礼拝的価値

プーシキン美術館展が予想を上回る34万人弱の入場者を迎え、9月16日に終了した。この展覧会では、夏休み期間中はともかく、9月に入っても、土日の週末だけではなく、平日、それも週末明けの月曜、火曜等も入場者の流れが止まらなかった。美術館としては、嬉しい悲鳴というところだが、そうした平日も美術館に足を運んだのが、概ね中高年世代であった。実際の入場者数の曜日ごとの推移を見てみても、本展の入場者状況がいかに特徴的かわかるだろう。というのも、当館で2005年に54万人強の入場者の数を得た「ルーブル美術館」展は、それでも平日の月曜の入館者は、前日の日曜の約半数だったに対して、プーシキンは、やや減るものの、ほとんど同数の入場者数だったからだ。

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これは、何を意味しているのだろう。平日の時間を自由に使える世代が増加したことは、すでに後期高齢者社会を迎えている日本では、さほど珍しい事でもないのだろうし、こうした現象は今後も進んで行くのかもしれない。それにしても、この展覧会で紹介された18世紀から19世紀までのフランス絵画に、これほどまでの興味を示されているのは一体どういうわけだろう。

ここでは、この事態を入館者数、あるいは入館者の属性だけから考えるのではなく、かつて、ヴァルター・ベンヤミンが、その著書「複製技術時代の芸術作品」(1936-39)で考察した、芸術作品のアウラの喪失に立ち返って考察してみようと思う。なぜなら、本展における絵画作品には、失ったはずの展示的価値以上に言わば礼拝的価値が見いだせると思われるからだ。

ベンヤミンが言う複製技術とは、写真(1839)と映画(エジソンによるキネトスコープ/1894、あるいはリュミエール兄弟によるシネマトグラフ/1895)を指している。そうした技術が発明されるまでは、芸術作品は、この世に一つしかなく、それが置かれている事態、つまりベンヤミン的に言えば「いま、ここに在る」というのが、作品の真正性(オリジナリティ)を担保していた。したがって、人々は、その作品が置かれている場所に足を運ばなければ、観ることも知ることも出来なかった。ところが、写真や映画が登場すると、「作品が、いま、ここに在るということの価値だけは、低下させてしまう。(中略)この過程は、作品のもっとも敏感な核心に触れてゆく。(中略)その核心とは、作品の真正性だ。ある事物において根源から伝えられるものの総体であって、それが物質的に存続していること、それが歴史の証人となっていることなどを含む。歴史の証人となっていることは、物質的に存続していることに依拠しているから、この存続という根拠が奪われている複製にあっては、歴史の証人となる能力もあやふやになる。(中略)こうして揺らぐものこそ、事物の権威、事物に伝えられている重みにほかならない。」

さらに、ベンヤミンは、視覚も含めた知覚は、歴史的にそれぞれの時代によって異なる組織化が行われてきたと考えていたので、知覚の変容は社会の歴史的変化と密接な関係があるとしている。したがって、写真等によって複製される芸術作品は、それ自体が一人歩きし、それがモノとしてそこに在ることを忘れさせてしまうことによって生じる知覚の変容に注目する。したがって、ここでは、写真や映画が、伝統的な美術(fine art)に属し得るかどうか、という問題は提示されていない。というよりも、その問題設定は埒外とする立場をとっている。

さて、一方、写真、映画同様19世紀のもう一つ産物である美術館を巡っては、これも極めて19世紀的なフランスの作家ポール・ヴァレリーの美術館に対する辛辣な批判が有効な手だてになるだろう。自分は美術館をそれほど好いていないとヴァレリーは吐露するのだが、あんなにもたくさんの驚嘆に価するものが美術館に保存されているのに、味わいあるものときたら、まことに寥々たるものだ、と嘆く。貴族じみたヴァレリーは、彼から散歩用のステッキを取り上げる美術館の横柄な態度や、喫煙禁止の掲示によって、すでに自分が圧迫されていると感じるのだ。そもそも美術館に何を求めてくるのか。教養をつけるためか、陶然としてみたくてか、それとも、習慣に従うという義務を果たすためか。このような支離滅裂な館(美術館)は、いかなる快楽の文化も、いかなる理性の文化もつくりえなかっただろう。死せる幻想がそこには安置されている、と彼はいう。

ここでもまた、作品の永続性は、《今とここ》によって計られる。ヴァレリーにとって芸術は、直接的な生のなかの場所を、すなわち、かつてそれがそのなかにあった機能連関を失ったときに滅びるのだ、という認識に立つ。つまり、使用する可能性との関係を失ったときに美術は、滅びるのである。

こうした言説にある意味で支えながら、ベンヤミンは、そうした生を剥ぎ取られた美術館における芸術作品(ただし、19世紀以降、芸術家は明らかに美術館における展示を前提に作品を制作したので、ここからは除外する必要がある。)に加えて、複製されたイメージが、オリジナルの作品から生、アウラを剥ぎ取ってしまうことに注目する。かつて、礼拝の対象であった芸術作品が、美術館に移行することで、展示的価値と認知される事態。そしてその展示価値を遺漏なく保つために中性的な空間=ホワイト・ キューブが創出されるという経緯(1929年、ニューヨーク近代美術館において)。《今とここ》にあるということで、真正性が担保された芸術作品は、一つには、美術館へ収蔵される事で、今一つは、複製として一枚のプリントに移行することで、その真正性に揺らぎが生じてしまう、芸術にとっては危機の時代を迎えるというのがベンヤミンの主張するところだろう。

確かに、このエッセイが書かれた1936年から39年は、写真発明からまだ約100年、映画 発明から約50年しか経っていない時期でもあったのだが、さて、それからそれぞれさらに80年ほどの歳月を経て、今ベンヤミンの唱えるアウラの喪失、礼拝的価値の喪失は、果たして同じように機能しているだろうか。

確かに今日では、イメージのデジタル化が急速に進み、その情報の伝播力、あるいは、記憶の共有の容易さも相まって、人は、ますますオリジナル=真正性から極端に疎外された状況が進んでいる。筆者が教える美大の大学生ですら、美術史上の作品について良く知ってはいるものの、実際の作品を観たものは極端に少ない。もっとも、図版によって知る作品は、細部までよく見えるのだが、皮肉にも薄くらい美術館で実作品に遭遇出来たとしても実はあまりよく見えない。しかし、その見えにくいということよりも、その場に居ることで生じる礼拝的価値が優先されるとすれば、むしろ見えなくても良いのだ。そこにまさに居ることで得られるオーラさえ共有出来れば。

今や美術館には、展示価値に加えて、礼拝的価値を得る場として新たな存在理由が得ていると言えば言い過ぎだろうか? 複製技術が終着のない進化を見せるのに反比例し、真正性=オリジナルへのフェッティッシュな欲望が倍加されている中、辛うじて真正性を優先する美術館は、まさに現代の美の礼拝の場に成りうるのかもしれない。この意味においても、今一度ベンヤミンの再検討の意義がありそうだ。

*参考図書
「プリズメンー文化批判と社会」テオドール・アドルノ、ちくま学芸文庫
「複製技術時代の芸術作品」(「ベンヤミン・コレクション1 近代の意味」ヴァルター・ベンヤミン、ちくま学芸文庫所収)

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜美術館主席学芸員