VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.19

Posted : 2012.08.25
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横浜美術館の天野学芸員が綴る、アートをめぐっての考察。 「アートとは?」と問い続ける連載です。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年8年25日発行号に掲載したものです。

第19回:作品の不在性

今回は、近代美学における「無関心性」または「関心性」を巡る受容者側の論理と制作者側の論理の齟齬を書く予定だったが、前回の補遺として、ようやくその作品を実見することになったトヨダヒトシの作品について触れることにした。ここでは、トヨダが、写真の一つのプレゼンスとしてのスライドという形式が持つ特性について触れつつ、その作品を市場に出さない、つまり売る事がない、という作者自身の言葉を巡って考えてみたい。
さて、トヨダヒトシのスライド・ショーが、札幌で、2012年7月6日(金)、7日(土)の両日連続して行なわれた。1)

札幌市立大学での上映風景(2012.7.6) 写真:© 伊藤留美子

札幌市立大学での上映風景(2012.7.6) 写真:© 伊藤留美子

 

ここでは、パブリック公開された「NAZUNA」を中心に、トヨダ作品について論じてみたい。また、筆者は、札幌の上映の前に行なわれた青森での作品2)、「白い月」と「黒い月」は未見であるので、以下のテキストで「トヨダ作品」とは原則として「NAZUNA」を指している。

岩佐ビル屋上での上映(2012.7.7) 写真:© 伊藤留美子 2)

岩佐ビル屋上での上映(2012.7.7) 写真:© 伊藤留美子 2)

 

作品の形態

トヨダの作品は、スライド・プロジェクター映写という形式で発表される。1枚あたりの上映時間は、約8から12秒。プロジェクターの操作は、トヨダ自身が行う。すべてのスライドの上映が終了するまでが、上映時間ということになるので、僅かながらと言いつつも、上映毎に上映時間は異なることになる。この意味で映画とは異なる。
一枚一枚のスライドは、トヨダ自身が撮影した(された)写真で、何枚かの字幕だけが記されたスライドが差し込まれている。
ところで、写真というメディアが、ファイン・アートと同じ出自かどうか、その誕生から今日まで議論が重ねられ、未だ決着をみていない。その理由の一つは、絵画や彫刻といったファイン・アートが、再現芸術である一方、写真には、再現性という言葉が当て嵌まらないからだ。というのも、写真は、「いま、ここにあるモノ」をプリントに転位したものであり、だからこそ、絵画等を象徴、表象、イコンというのに対して、写真が、指標と言われる所以もその辺りにある。また、写真が、「コードなきメッセージ」と評されることがあるのも、こうした事に起因している。写真は、それに添えられるテキスト(写真の内容を過不足なく伝える)がない限りにおいて、何を意味しているか了解不能であり、個別の写真は、それ自体で特定の何かを語ることは出来ない。
ということで、一枚の写真に物語が在るのではなく、その一枚が言わば物語の「素」となって、特定の文脈=物語にしたがって配列される時、それらは一つの物語を形成することになる。ただし、写真=断片の集合体である物語は、一つとは限らない。物語を作り出す人の数だけ存在することになる。仮に、写真の撮り手と、物語の構成者が同じであったとしても、複数の物語の形成は十分に可能である。同じ写真を使ったとしても、幾つかの順序変更が生じれば、複数の物語が生まれるからだ。
トヨダの作品も例外ではない。撮り手の編集作業によって決定された順序によ って、一枚一枚の写真とテキストが上映される。そして、そこには、明らかに一枚一枚の間のイメージの「溝」を逆手にとった、つまり、観者による「溝」の埋め合わせ作業を伴った行為との抱き合わせによってこの作品が成立しているからだ。言わば、作り手の「関心性」と受容側の「関心性」のマリアージュが生まれるというわけだ。

物語について

トヨダの作品は、上映が終了するまで、観者と一定の時間を過ごしながら、あたかも一つの「物語」を共有しているかのような経験が生まれる。それは、映画観賞における経験と類似している。
映画は、関心性の高い受容者(観者)に向けられたものである。言い換えれば、中立的な立場に向けられるものではない。そして、観者は、その関心性によって上映される映画に個々独自の読替えを行なうことで、映画を媒介とするコミュニケーションを果たす。映画を鑑賞し終わった観者が、必ずしも同様の感想を述べる事がないのはそのためである。
一方、映画には、観者にとって理解不能な場面が幾つか挿入されている。あるいは、場面展開において、その関係性が読み込めない場合がある。静止画である写真においても、撮影の対象外に意識が及んでいないため、撮影者ですら了解外のモノが写り込む。無論映画は、全編理解不能なシーンによって構成されているわけではなく、エンド・マークまで、「物語」が展開される。これもまた、観賞後の観者の感想がまちまちであっても、プロットの説明においてはお互いに大きな齟齬が生じないことに現れている。ただ、映画における理解不能なシーンが現れる事で、そこに観者自身の解釈を誘う契機が生じるのだ。
トヨダの作品は、映画のような動画ではなく、静止画、つまり写真である。一枚一枚の写真には、個別のキャプションが付されている訳ではないので、一体何を意味するのか理解出来ない。ただ、挿入された何枚かのテキストだけのスライドで、全体の「物語」を補うしかない。いずれにしても、個別のイメージ自体にどういった具体的な意味があるのか判然としない事態が続くこともある。また、映画と違って、エンド・マークに向かって物語が展開される訳ではない。物語があるとすれば、トヨダの写真と個々の観者の中で醸成された自身の記憶との編み込みによって生まれた無数の物語が点在することになる。ここでは、写真が「コードなきメッセージ」であることを改めて追認することになるのだが、トヨダ作品は、そうした属性を持つ写真の集積体であることで、新たな属性が付与されることになる。それは何か?
写真の持つ属性と、作品の形態=スライド・ショーの属性には明らかに違いがあり、その意味で、トヨダ作品には、二重の構造がある。後述するが、絵画等における一回性がここには同時に含まれているのだ。映画における鑑賞者の経験は、不変の形式によって得られるのだが、トヨダの作品には、その上映毎に形式が微妙にあるいは大幅に変化することにおいて可変性を有している。無論、今回青森と札幌で上映された「ゾウノシッポ」のように、スライドの枚数も順序も変えずに上映することもある。しかし、それは、その場でトヨダ自身によって決定が委ねられている。

常に、トヨダ自身が、スライドの操作を行なう。 写真:© 伊藤留美子

常に、トヨダ自身が、スライドの操作を行なう。 写真:© 伊藤留美子

 

すでに述べたが、映画は決まった上映時間を持つということでは不変ではあるが、そこでのイメージは、いくら慎重かつ周到に編集されても、撮り手=監督の手からこぼれ落ちるシーンが含まれている。観者にとっても、理解が困難であったり、あるいは、喉に引っかかった魚の小骨のように、いつまでも気になる存在となる。だからこそ、観者の興味を引き、それぞれの解釈を始めるのだ。一方で、自明なものとして観者の解釈を誘う要素のないシーンもまた大半を閉めている。ロラン・バルトは、それらを「le sense obvie」、「le sense obtus」と命名し、「シニフィエある(なき)シニフィアン」として区別することになる。それでは、トヨダ作品における「気になる存在」、あるいは場合によっては「釈然としない」事態とは何だろうか。

反復性

トヨダ作品には、幾つかのイメージが反復して使用される。正確に言えば、撮影日時が異なるという意味では、準反復と言うべきイメージが何度か現れる。トヨダの両親と思しき人物、犬、自らの手のクローズアップ、病院、訪れた場所での人物。これらのイメージは、少なくともスライド・ショー全体を散漫な印象に終わらせない役割を果たしている。なぜなら、それらのイメージが現れる度に、鑑賞者は、その意味を繰り返し解釈しようと試みるからである。若かりし頃の両親、現在の姿、そして、父親と母親がいつもの場所で食事をする風景、誰しもがそれらのイメージの時間的経過の中で、順に記憶され、最終的には、母親がすでに鬼籍に入ったことを理解する。誤解を恐れずに言えば、これらのイメージから成るトヨダ作品は、「物語=虚構」であり、何かの「真実」を伝えるものではない。一つ一つの写真は、すでに述べたように、世界の断片であり、物語の素に過ぎない。そして、そこにあるのは、撮影をした、という事実以外に何もない。写真の中に映し込まれているものは、撮影者だけによって経験された以外の何ものでもないからだ。上述したように、準反復されるイメージは、結果としてトヨダ作品を受け入れ難いものとしてではなく、「腑に落ちる」経験を観者に落とすことになる。一つ一つのイメージを、誰も十全に説明できないのに、だ。この「腑に落ちる」瞬間は、観者の印象を二分することになる。一つは、まさに「譜に落ちる」快感を、今一つは、「腑に落ちない」ことで担保される解釈の余地が失われることへの失望を生む。

註1
札幌市立大学で行なわれたスライド・ショーは、同大教授の上遠野敏氏の授業の一環で行なわれたもので、パブリックの公開ではなかった。作品のタイトルについては、「An Elephant’s Tail ゾウノシッポ」が、インドの寓話「群盲象を評す」から、「NAZUNA 」は、芭焦の句「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」から取られたものだ。

作品のデータ
「An Elephant’s Tail—ゾウノシッポ」
撮影年:1992-1997年
制作年:1999年
上映時間:35分
材質・形状:35mm スライド・フィルム(175枚)、スライド・プロジェクター、サイレント
上映日時:2012年7月6日(金)18:30から

「NAZUNA 」
撮影年:2001-2002年
制作年:2004-2007年
上映時間:90分
材質・形状:35mmスライド・フィルム(582枚)、スライド・プロジェクター、サイレント
上映日時:2012年7月7日(土)19:30から

註2
青森での上映は、青森県立美術館で開催された企画展「超群島 - ライト・オブ・サイレンス」関連企画として行なわれ、以下の日程で実施された。

2012年 6月29日(金) 開始 18:00 – 終了(予定) 19:05
ゾウノシッポ (1999年 / 35ミリ・スライドフィルム / 35分 / サイレント)

2012年 6月30日(土) 開始 18:00 – 終了(予定) 19:20
白い月 (2010年 / 35ミリ・スライドフィルム / 50分 / サイレント)

2012年 7月1日(日) 開始 18:00 – 終了(予定) 19:50
黒い月 (2011年 / 35ミリ・スライドフィルム / 80分 / サイレント)

作家プロフィール
トヨダヒトシ TOYODA HITOSHI
1963年NY生まれ、東京育ち。1993年以来ニューヨークを拠点に、ブロードウェイ沿いの駐車場やチャイナタウンの公園、教会、劇場といったパブリック・スペースで映写機を自ら操作しながら上映するライヴ・スライドショーという形式での長・短編の映像日記作品を発表してきた。2000年より日本でも東京都現代美術館、世田谷美術館、横須賀美術館、タカ・イシイギャラリーなどの上映の他、廃校になった小学校の校庭等でも上映を行なう。(http://www.hitoshitoyoda.com/home.html

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜美術館主席学芸員。

 

 

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年8月25日発行号に掲載したものです。