VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.18

Posted : 2012.06.25
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横浜美術館の天野学芸員が綴る、アートをめぐっての考察。 「アートとは?」と問い続ける連載です。

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年6年25日発行号に掲載したものです。

第18回:『貨幣・死・美術』その2-無関心性について―

無関心性:カントによる「美」

カントは、「美」を4つの契機によって定義付けており、「無関心性」は、その一つとして挙げられている。前回のおさらいをすれば、人間にとって相対的な感情を伴う関心性にたいして、主観的ではあるが、普遍的妥当性を伴う無関心性にこそ真の美が存在することがここで強調される。つまり、一切の関心のなさが、それゆえ、普遍的な美を生む契機となる、というものだ。そして、ここでの「関心事」は、美をめぐる無関心性と、「法と知性と貨幣の三つのすべては、個人的特徴に対する無関心によって特徴づけられる。」という今村の指摘をどう考えればよいか、という問題である。普遍妥当性は、無関心性によって担保される、ということとは何か?
この場合の普遍的妥当性とは、ジンメルの立場から言えば、「貨幣、論理、法」という媒介形式の無差別的一般性の根拠として認識されている。つまり、空虚な形式がもつ無差別的な一般性において、善悪を超えた存在全体に対する妥当性を生み出すことに繋がる。今村自身、貨幣の媒介性にこそ、その本質が在るとし、「貨幣は人間関係の暴力性を一身に体現し、いわば関係のなかの犠牲者になり、そうすることで貨幣形式、つまり関係の媒介者になるのである。」と、指摘する。
一方、確かに、美術作品とその価値について、貨幣同様、素材論からはじめることは一般的ではないし、有効な方法でもない。何十億も市場で売買されている印象派の絵画の素材は、決して高価とは言えないカンヴァスや絵具、あるいは額から構成されている。そのことに、人々は、一義的に関心を示す訳ではない。というよりも、近代の美学は、芸術家の主観性と素材を分離させるところから出発しており、素材論を展開する余地はそもそも残されていない。
話が、抽象的になってしまわないように具体的な例が必要だろう。況んや、筆者が、この問題にそれこそ関心を寄せる理由もまた、現代美術を巡っての「貨幣問題」が、幾つか散見されたことにその契機があるのだから。ここでは、その数例を挙げてみようと思う。ただし、それらが、一見したところ、市場の外にその作品の存在を際立たせようとしているからと言って、市場で扱われる作品と何か決定的な違いを内包しているとは限らないことは断っておく必要がある。というよりも、貨幣のごとく、あるいは、カントのごとく、無関心性が担保する美に召還されるものではない、と言うべきかもしれない。このことについては、後述する。

トヨダヒトシ—草の根的な発表の仕方

さて、はじめに取り上げるのは、写真家トヨダヒトシである。トヨダは、写真家と言っても、その多くの場合のようにそのプリントを壁面に展示をする方法はとらず、もっぱら、スライド・ショー、それも、デジタルではなく、アナログのフィルムを使用し、昔ながらのスライド・プロジェクターによって上映を行っている。ところで、美術業界新聞「新美術新聞」の新美術時評(2010.11.11)で、美術評論の光田ゆりが、トヨダヒトシの作品を端的に説明している箇所があるので引用しておこう。
「トヨダの上映会場では、スライド交換の音だけがして、あとは無音である。みんな黙ってスクリーンを見ているが、後方で作家が一枚づつ(ママ)ボタン操作をして、一緒にスクリーンを見ていることを観客は意識している。彼の仕事には、作家の生活と思想そのものである写真を丁寧に贈ってもらえるような感覚がある。」
ここで述べられているように、トヨダの作品は、スライド(35mmポジ)によるスライド・ショーという形式で成立している。それらは、例えば、「白い月」とか「黒い月」といったタイトルが付けられており、予め撮影されたスライドや、しばしばスライド・ショーが開催される場所で新たに撮影されたスライドも含めて編集され構成されている。とは言え、こうしたアナログな装置であるスライド・プロジェクターを使ったスライド・ショーという形式による作品の発表の仕方は、トヨダのオリジナルではない。例えば、アメリカの写真家ナン・ゴールディンの「オールバイマイセルフ」(1995-6)96点のスライドとアーサ・キットの音楽)にもその先例を見る事が出来る。おまけに、興味深いことに、トヨダはニューヨークのICP(国際写真センター)の社会人枠の授業で、彼女から写真を学んでいる。無論、これを持って、その影響関係を言うのは早急かもしれないが、いずれにせよ、両者の作品発表の形式には確かに類似点はある。ただ、ナン・ゴールディンの場合が、オートマチックな設定で、装填されたスライドが、繰り返しループ形式で映写され、同時に特定の音楽も再生される点、そしてそこには、作家自身は不在である、という点で、トヨダとは異なる。トヨダの場合は、1回限りの上映で、しかも、本人が、必ず作品の一部としてそこに居て操作もし、少しばかりの「語り」も入れる。それ以外の音も音楽も添えられることはない。さらに言えば、ナン・ゴールディンのスライド・ショーが、その始まりと終わりを展示された場所の誰かによって操作されるのに対し、トヨダの場合は、操作に関して、自身がすべてを支配する、という方法をとっている。
さて、先の光田のテキストは、トヨダの作品に「反資本主義的な価値」を見いだそうとする。すなわち、「売買するモノのない、利益をあげようもない、作家同伴スライド・ショーというミニコミ的。草の根的な方法。」あるいは「大切なものは保有できないこと」を見る者に感じさせ、「彼の友人たちは、社会の仕組みの手すりや仕切りをかいくぐるように擦過しながら別のところに自分の場所を見つけようとしているひとたちに見える。その傷つきと尊厳のあいだに、骨まで縛ろうとする資本主義的価値観のとぎれ目が見つかるように思うのである。」と。実は、この時点で、私自身は、直接トヨダの作品を観ていない。数週間前に出張先で知り合いの写真家から「トヨダヒトシ」の名前を知らされ、その場で、「N.Y.在住の写真家トヨダヒトシさんが、星ヶ丘洋裁学校で行ったスライド・ショーをレポート。」という動画をネット上で観たのが最初の「出会い」だった。その映像の中で、訥々と語るトヨダの話を聴き、会ってみたいと思った。それは、光田がトヨダの作品に「反資本主義的」な何物かを嗅ぎ取った順序とは異なり、「貨幣と社会」といったものに関心を示していたところにトヨダ作品が現れ、自分自身の中でどう位置づけるべきかを考えることになったからだ。一方で、光田が指摘する「大切なものは保有できないこと」という事態=事は、モノ自体への欲望とは異なる次元の美的経験を付与する。言わば、絵画の起源に倣って、スクリーンに写し出されるトヨダが撮影したモノの影に我々は、ある種の憧憬を抱くとすれば、それはますます実体から遠ざかる。

片山真理—徹底した自己への「関心」から生まれる表現

さて、もう一人。
今年大学院を修了したてのアーティスト片山真理の場合。片山を知ることになったのは、「アート・アワード・トーキョー2012」の審査員として、その作品を審査したことがきっかけだ。作品が展示された風景を図版として掲載しておく。

片山真理 写真提供:アートアワードトーキョー丸の内2012実行委員会

片山真理 写真提供:アートアワードトーキョー丸の内2012実行委員会

 

ご覧の通り、その作品は、壁面に展示されている額装された写真の作品と、その前に展示された数々のオブジェから成っている。そして、片山は、個々の作品というよりも、このように展示をされた総体として作品を成立させている。片山は、生まれながら足に障害を持ち、9歳の時に、両足の膝から下を切断することになった。義足による生活がはじまるのだが、片山は不自由な生活を自らの手で「繕う」ことをはじめる。自分の体に合わせて縫い物をしたりすることは、早い時期から始めていた。今回出品されているソフト・スカラプチャーとでも言うべき編み物によるオブジェ作品の始まりはこうした契機を持っている。成人になるにつれて、自らを取り巻く判で押したような言説—障害、福祉といったーから解き放されるように「表現」の純度を高めていく。言わば存在の証としての自己表現は、だからこそそれを商品として市場に手渡す事をよしとしない。言い換えれば、それは生活の基盤を支えるものではないのだ。ここでは、徹底した自己への「関心」が示され、同時に、選択された素材もまたその「関心」から生まれる表現と一体をなしている。
トヨダの例も、あるいは片山の場合も、その作品を売るということを想定していない。また、興味深いことに、トヨダが写真を習ったナン・ゴールディンもまた、その作品「オールバイマイセルフ」を条件付きでしか売らないとしている。つまり、ただでさえ、自慰的な作品を個人コレクターが密かに楽しむためには売らなかったのだ。これらの作品の共通するのは、市場に出す、出さないということよりも、徹底した自身の「関心」の果ての作品であるということだろう。「無関心性」を巡る美学的言説に抗したこれらの作品をどう考えれば良いのだろうか。ところで、カントの示した「主観的ではあるが、普遍的妥当性を伴う無関心性にこそ真の美が存在する」ことへ、徹底した批判を加えた一人にニーチェがあげられる。次回は、その批判を紹介しながら、作品を巡る表現者と受容者における「無関心性」について論じてみたい。

関連サイト
▼トヨダヒトシ
N.Y.在住の写真家トヨダヒトシさんが、星ヶ丘洋裁学校で行ったスライド・ショーをレポート。
http://www.connectortv.net/libraries/070.php

▼片山真理
両足義足でハイヒールを履くという選択 / アーティスト・片山真理さん
http://www.ethicalfashionjapan.com/interview-katayama-mari-jp/

▼アート・アワード・トーキョー2012
http://www.artawardtokyo.jp/2012/ja/

 

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜美術館主席学芸員。

 

 

 

※本記事は旧「アートウェブマガジン ヨコハマ創造界隈」2012年6月25日発行号に掲載したものです。