VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.36

Posted : 2016.12.30
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メモとして すぐれた媒介論としての「政談」

はじめに

人はなんらかの形で選択をしながら人生を歩んでいくことになる。どの道を選んで駅まで行くか、にはじまって、進学をする、しない、結婚をする、しない、というふうに。これは一見、まるで二進法のデジタルシステムのように、イェスかノーという二者選択のように見えるし、実際に、どちらかを選択するというのは確かにそうしたプロセスに似ている。果たして本当にそうだろうか。
例えば、美術におけるメディウムの問題は、ある意味で選択の問題でもある。メディウム・スペシフィックというモダニズムの考え方は、まさに選択そのものと言っても良い。混じり合うことを嫌うこの考え方は、芸術のそれぞれの分野が他の力を借りず自律することによって成立するという前提に立ち、絵画なら絵画の純粋性を追求することになる。翻って20世紀美術は、もう一つのメディウムのあり方であるインターメディアあるいはミクスト・メディアの時代でもあった。とするとこのメディウム・スペシフィックは捨て去られたのかだろうか。物事を線的に捉えればそうした見方も成立するだろうが、ことはそれほど、つまり二進法的選択ほどシンプルではない。美術史家岡田温司は、これら二つの動きを「最初から車の両輪だったのであり、しばしばメビウスの輪のようにたがいに反転しながら絡みあっているのだ。」と指摘する註1)。
この言葉はまるで人の選択は、選択しなかったものを亡きものにして行われる訳ではないことを示唆しているような気がする。何かを選択した後、反省的に選択しなかったことについて回顧することもあるだろうし、場合によっては選択のし直しさえ現実に起こりうることだろう。
良くも悪くも近代以前の社会は、人々の移動について厳しい制限が加えられる一方、管理するという意味もあるが、人間間の紐帯が強く保たれていた。ところが、19世紀以降の近代社会は、移動も含めた自由が保証され、紐帯よりも移動することで生じる新たな人間関係、あるいは資本主義による市場の拡大によるモノヒトの移動を促進してきた。美術史家の三浦篤は、19世紀を起点とする美術の転換期について次にように述べている。

「芸術家にとって制度的な安定から離れて、自由と独立を得た代償は大きいとも言える。作品を売却しなくとも生活していける一部の層を除けば、画家として活動を続けるためには、あるいは端的に生きていくためには、どのような形であれ社会に認められて、作品が売れる必要があった。」註2)

三浦が指摘するこの近代へのシフトは、形を変えつつも基本的には今日まで続くシステムである。人はここで大きな選択をしたのだ。言うまでもないが、現代社会は、この19世紀以来のシステムに大きな課題を抱えることになった。果たして、自由に移動すること(グローバル社会)を善とするのか、今一度人間関係の紐帯を強化し、国家としての立て直し(移民政策の見直し等)を行うことが必要ではないか、と。

以下は、こうした選択のことをあれこれ考えていたときに出会った映画と書籍についてのエッセイである。

最近荻生徂徠の「政談」註3)(と言っても現代語訳だが)に挑戦しようと入手した。私事で恐縮だが、なぜ「政談」なのか、入手することにした経緯を書いてみようと思う。

経緯その1

旅行中の機内で「殿、利息でござる」という映画を観た。時間潰しで何の期待もしなかったのだが、これに甚く感動した。何に心動かされたかというと、18世紀の日本(江戸時代)に身分を超えてある価値観を共有しえたという事実がそこに見出されたからだ。所詮娯楽映画とタカをくくっていたが、史実に基づいているとなると俄然リアリティも増すことになった。プロットは以下の通り。
「1766年(明和3年)の仙台藩領内の宿場町・吉岡宿が舞台。仙台藩の宿場町には宿場町間の物資の輸送を行う「伝馬役」が役目として課せられており、通常は藩より宿場町に助成金が支給されているのだが、吉岡宿は藩の直轄領ではないため助成金が支給されていなかった。このため、伝馬役にかかる費用は全て吉岡宿の住人が負担して町は困窮し、破産者夜逃げ者が相次ぐ有様であった。このような町の有様を案じていた造り酒屋の当主・穀田屋十三郎は、町の窮状を訴えるため、代官に訴状を渡そうとするが、京から帰ってきたばかりの茶師・菅原屋篤平治に命が危険であると止められる。ある日の晩、未亡人ときが営む煮売り屋「しま屋」で篤平治と偶然一緒になった十三郎は、吉岡宿を救う手立てが何かないか相談する。篤平治が出した策は、吉岡宿の有志で銭を出し合い藩に貸して利息を取り、それを伝馬役に使うという奇策であった。百姓がお上にお金を貸すなど、案を出した当の篤平治ですら夢物語と言うほど現実味がない策のように思われたが、十三郎は策の実現のため、同志集めと銭集めに動き出す。」註4)
町人が窮状打開に奔走するのだが、何より感動したのは、両替商にして守銭奴として名高かった人物がまさに爪に火をともすかの如き努力で小銭を溜め込み、伝馬役の免除のためにその金を使おうとしていた事実が明らかになるシーンだった。というのも、最初の申し出は、仙台藩の萱場杢に却下されてしまい、人々は策を諦めかけるが、この守銭奴と悪評が立っていた先代・浅野屋甚内が、伝馬役の免除のために銭を貯めていたことが分かり、吉岡宿のために動いてくれていたことに感銘を受けた吉岡宿の人々や郡奉行・今泉七三郎の活動により、萱場は申し出を受け入れる。この郡奉行の働きを後押しするのは、何よりも両替商浅野屋甚内の無償の行為を美徳として認識する共有感覚だった。
一体この感覚はどうして共有されていたのだろうか、と知りたくなった。

 

経緯その2

数週間前にある現代美術作家のオープニングに出かけた時に、その美術作家から大学時代の同級生を紹介された。その時にはじめて知ったのだが、このアーティストは大学の時に国文学を専攻しており、卒業後、本人はアーティストに、そしてこの友人は近世日本漢文学、近世日本思想史の学者となっていた。高山大毅氏である。その時の会話は専門外の上に、高校の時に真面目に日本史を勉強しなかったこともあり、さしたる話題もなく、挨拶程度で終わることになった。帰宅してその高山氏の業績を調べたところ『近世日本の「礼楽」と「修辞」――荻生徂徠以後の「接人」の制度構想』第5回東京大学南原繁記念出版賞を受賞されていた。その時の講評が渡辺浩(法政大学教授・東京大学名誉教授)によって書かれていたので抜粋しておく。
「第一に、その新しい視角である。まず、筆者は、「「政治」の発見」「「文学」の自立」「個性の重視」等の「近代」の「萌芽」を、徳川の世に見出そうなどとはしない。自明視した「近代」なるものに(善かれ悪しかれ)つながる「源流」を発見しようなどともしない。また、筆者は、単純に中国儒学に照らして、日本儒学の「独自性」や「特殊性」を高踏的に論じたりもしない。そうではなく、徂徠および彼以後、「礼楽」の構築と「修辞」の洗練によって、よき秩序を維持し、温雅な交際を実現しようという様々な模索が(中国の儒学・文学・文化をも利用しつつ)なされていたという、これまで総合して扱われたことの無い事実に着目し、その内容と変遷を詳細に明らかにしようとしたのである。
第二に、新しい対象の選択である。新しい視角を採用した結果、従来ほとんど無視されてきた人物や著作が筆者の視野に入ったようである。現に筆者は、様々な図書館・文書館・古書店に眠っていた、従来活用されていない史料も、多数、用いている。その史料の博捜ぶりは瞠目すべきものである。また、徂徠学派の展開を論じる時、水足博泉の「器」論や田中江南の「投壺」論は普通注目されない。「遅れてきた「古学」者」として會沢正志齋を扱うことも通常ない。また、「直言」批判として、徂徠から賀茂真淵・本居宣長・富士谷御杖までをくくって論じることもまずない。しかし、筆者は、敢えてそれを試み、彼等について説得力をもって叙述している。
第三に、以上の結果として得られた新しい知見の数々である。とりわけ、天皇の祭祀に関する會沢正志齋の議論が徂徠の文章の断片に依拠しているという発見は、従来、正志齋の議論の分析のみから推定されていた徂徠と正志齋との関係について、史料による実証をもたらしたものである。そして、これらの知見によって立ち現れてくる思想と文学の流れは、新鮮な意外性に満ちている。しかも、筆者は、いかに人と「接」わるかが、実は我々自身の問題でもあることをも、周到に論じている。すなわち、筆者は、現代にあぐらをかいた傲慢な審判者にならないばかりか、現代から逃亡して「江戸趣味」に淫することもしないのである。」註5)

もう講評からして興味深い。職業柄、美術史を生業にしていると言いたいところだが、中途半端な知識しかない身からすれば、こうした学問的態度には身を正す思いである。しかも、美術におけるモダニズムについて多少なりとも関心を寄せている立場からすれば高山氏の業績や渡辺浩氏のその業績にたいする評価についてのテキストは、特に今という時点からのバイヤスのかかった歴史観への警告等も含め、多くの学ぶべき点が含まれているように思えた。
さて、ここで指摘されている「よき秩序を維持し、温雅な交際を実現」についての考察は、件の映画の中の身分を超えた共通感覚を示唆してくれるのではないかと思った。そして、裏付けもない、この安直な思いつきで、手元に政談が届くことになったのだ。
「政談」には、高山大毅氏自身の「解説「役の体系」の可能性」を、そして歴史学者尾藤正英氏の「国家主義の祖型としての徂徠」がそれぞれ所収されている。江戸時代における社会的役割—今回はここに身分を超えた共通感覚があるのではないかーについて着目した尾藤氏の業績を高山氏が紹介している箇所がある。尾藤氏が、社会的「役割」に着目し、江戸期の社会構造と思想について論じた「役の体系」を念頭に入れつつ、
「氏(尾藤)が出発点とするのは「役」という観念である。「役」の字はもともとは、労働の義務を意味する。古代日本でも、律令の「賦役令」にしめされているように、「役」は原義通りに用いられていた。しかし、時代が下がるとともに意味に変化が生じ、江戸期においては、特定の集団の一員としての自覚に基づき、その責任を主体的に担おうとする際の任務といった意味を持つようになる。これは、国政上の「役」の負担と関係している。武士は軍役、町人は国役や公役、百姓には夫役といったように、それぞれの身分に応じて労働の義務である「役」が課され、この「役」の負担を引き受けることで、その身分は保障される(「役の体系」)。」註6)
こうして展開される尾藤氏の業績において高山氏が注目するのは、「家業」や「職分」を大切にし、それに従事することに生きがいを見出すことは、武士が武士らしく、百姓は百姓らしく生きることを理想にすることで、役割ごとに考え方や感性の違いをありとする社会を意味した。そして、同じ組織、同じ役割の中に同質化の力が強く働くとともに、それぞれの価値観が他には通じないという限界性の認識もまた生んだことを指摘している。理は職業ごとに異なるのである。註7)

しかし、これでは身分間の共通感覚の共有というよりは、むしろその差異が際立つだけではないかと思われるかもしれない。結論から言えば、むしろ逆であり、荻生徂徠の思惟に見られる個人の資質や能力の違いへの肯定的な態度は、ある体系(今風に言えばガヴァナンスか?)が前提としてある分業体系論から成立している。従って、「各人がそれぞれ役割を引き受けて生きるというのは、見方を変えれば、ある〈目的〉のためにそれぞれが一定の機能を担っているということである。」註8)と。
ところで、映画「殿、利息でござる」は史実に基づいただけあって終盤でその子孫について紹介している。場所(宮城県黒川郡大和町)も家業もほぼ同じ。まるで徂徠の「土着」論を地で行くかのような光景である。江戸時代の民の移動の制限は、治安の安定、武備の充実がその目的であったそうだが、とりわけ徂徠は人間関係の固定化に重点を置いた点が特徴的である。ここでは、為政者にとっての都合だけではなく、むしろ、「民家の旦那」が寒暑を厭わず労働し、奉公人をはじめとする家内の人々の面倒を見る(苦にする)ことへの配慮を徂徠は忘れていないし、ここにこそ統治者としての「徳」、「仁」原基を見出そうとしている。

生まれた時の為政者が賢人であるか愚人であるかは運命に委ねるしかないが、徂徠の目論見はそうした「気ままな運命論」ではなく、どの時代にも通用する普遍性を求めたように見える。また、徂徠、そして尾藤氏、高山氏の精緻で丹念な調査に基づく歴史の再構築において、いかに拙速に正義論や真偽論を展開することが愚かであるかを思い知るのである。「人間関係が流動的ならば、厄介な人々を無視し、回避出来るが、固定的ならば退路はない。「土着」は、親兄弟だけでなく、近隣の面倒な年長者までも、どうにか支え、もり立てる態度を民に身につけさせるのである(人間関係にゆがみが生じた場合には、名主や領主が親身に対応するであろう)。」註9)
下世話なことしか言えないが、この言葉今の我々に強く響かないだろうか。

すでに述べたことだが、江戸時代は、人間関係の紐帯を維持することに重きを置き、一方で人の移動を容易にすることはなかった。自由への制限である。この移動についてであるが、伊勢参り等は例外的に移動が許可されていたように、すべてに亘って制限されていた訳ではないのも事実だ。それよりも、移動に歯止めが効かなくなる要因は、何と言っても経済活動の活発化である。物流は当然人の移動を要請するものであったし、社会が平穏になれば尚更、「入り鉄砲に出女」を遵守する必要性も希薄にならざるをえなかった。事実上、関所改めが廃止されるのは、1867年(慶應3年)であるが、それは近世というよりは近代にシフトした時代であった。
社会を形成するシステムが固定から移動へとシフトするのは、貨幣経済をインフラとする経済活動の活発化と切り離せないのだが、ここで社会は、人間関係の紐帯の強化よりも移動の自由も含めた「自由」への選択を行うことになる。資本主義が高度に発達することで、日本の家族制度も大家族から核家族へと移行するのも同様で、ここでは、かつての地域コミュニティの強い絆は徐々に失われていく。超高齢化社会を迎えた現代社会は、今更のようにこの種の「紐帯」の再構築を目指しているのは文字通りで選択の過程で選択しなかった。

註1)
「「すべての芸術は音楽の状態を憧れる」、再考」岡田温司、表象08, 2014, p. 7

註2)
「近代芸術家の表象―マネ、ファンタン=ラトゥールと1860年代のフランス絵画」三浦篤、p.432」

註3)
「政談」荻生徂徠 尾藤正英(抄訳)講談社学術文化、2013

註4)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF%E3%80%81%E5%88%A9%E6%81%AF%E3%81%A7%E3%81%94%E3%81%96%E3%82%8B!

註5)
http://www.utp.or.jp/topics/nmbrp_ren/2015_5th/

註6)
前掲書, pp.352-353

註7)
前掲書, PP.353-354

註8)
前掲書, P.354

註9)
前掲書, P.360

 

photo:K. Boo Moon

photo:K. Boo Moon

著者プロフィール
天野太郎[あまの たろう]
横浜市民ギャラリーあざみ野
主席学芸員